【小説】パッタイと「とある命題」
声が消えかけたのは昨日の午後だった。
もしかしたらもっと前からかもしれない。でも一昨日から昨日の午前まで意図的に声を発する状況になかったから、それよりも早く予兆を捉えることはできそうにもなかった。
初めて違和感を覚えたのは遅めの昼食をとりにいったタイ料理屋でパッタイを注文しようとしたとき
午後2時を回った店内は閑散としていた。私の他には大学生らしきカップルと若い会社員が一人だけ。カーン・クラン・ヌンに乗って緩やかなタイ・タイムが流れている。
頃合いをみて注文を取りにきたタイ人のウェイトレスに「パッタイ」と告げた、つもりの口元から音らしい音が蒸発して消えたように見えたのは気のせいだろうか。
パ ッ タ
ィ
そこにはかろうじて「イ」の名残のような掠れがあった。音の残り滓が私と彼女の間を一周してから煙に巻かれるように消えたあと、あるべき音の空白に戸惑ったのは、どちらかといえばウェイトレスの方だった。
その人懐っこさを際立たせる平べったい鼻翼が歪んだから
反射的に、私はメニューにあるパッタイの写真を指した。彼女はああという顔をして伝票にすらすら書くと厨房へと戻って行く。
ผัดไทย
伝票に残された文字を眺めて何度か「パッタイ」と呟いた。高低やイントネーションを変えても、頭の中で「パッタイ」と響くカタカナが音声に変換されているかどうか判別がつかない。
他の単語だったら、例えばもっと馴染みのある日本語ならどうだろう、と辺りを見回したところで異国情緒あふれる小道具の多さに言葉そのものを失いかけたとき、ナンプラーの香りがしてパッタイが運ばれてきた。
刺さった生ニラの謎を残し、まず米麺を口にする。タマリンドの甘味に慣れたらライムを絞り、首を傾げたくなるトッピングー砂糖・酢・唐辛子を絡めてピーナッツを混ぜた。
ぺたりと甘酸っぱく少し辛い。この複雑なテイストに惑わされ半年に一度はどうしてもパッタイが食べたくなる。
自分で拵える気概はないから、そんな日はタイ料理屋に行く。でもこれだけインターバルが空くと、再現できない料理が故に、どんな味だったかすっかり忘れてしまう。
だから半年毎に、初めて食べるような気持ちで忘れてしまった味を思い出しながら口にして思い出してはまた忘れるというループを繰り返す。
この行方不明になった味覚を思うとき、もしかして盗んだのはテーブルの影からパッタイのピーナッツを狙っている小リスかもという疑惑が頭をもたげた。
せっせと木の実を集めてあちらこちらの木の下に隠し寒くなったら食べようと備えるのに、冬が来たらどこになにを埋めたのか綺麗さっぱり忘れてしまう可哀そうな小リス
「どこに埋めたのか思い出せないとき」≒「美味しいはずの味を覚えていないとき」の落胆ぶりは近似的に等しいように思えるけど、どうやら私の森に住んでいる小リスは同意しかねるようでそっぽを向いたまま生返事すらしない。
その代わり、穏やかなBGMを口笛で吹き飛ばし、Nirvanaのチャンネルを開く。やがてSmells like teen spiritの旋律がフックにかかる直前で、隠し持っていた胡桃のドラムを叩くリズムに合わせてカールした尻尾を上下に激しく振りながら「とある命題」を仕掛けてくる。
胡桃ドラムと尻尾バンギングの共鳴に目眩を起こしかけている小リスの声はすごくか細く小さいから、その小声に気がつかない振りをしてパッタイを食べ終えた私は、そっぽにはそっぽで応えるように小リスとカート・コバーンに背を向けて静かに席を立った。