#97 九死に一生

私は一度死んだようなものである。

それは新卒一社目の会社に入社して2カ月ほどのことだったと思う。私は某大手民間放送局直系の制作会社に入社し、とある長寿バラエティ番組のADとして配属された。

その当時で既に軽く10年を超える歴を誇る番組であり、私の担当コーナーもそれに比例した長く続いている企画であった。

バラエティ番組の現場……ましてや10年以上歴史のある番組というのは、出演者との関係値が長いことからとてつもなく無駄な忖度で業務の効率化という概念がない環境であった。

カンペは全て手書きで下書きもNG。一度書きミスしたら、カンペのスケッチブックごと新しいものにしなければならないという、SDGsの真逆をゆく制作体制で、当然資材を無駄にしたということで怒られもする。

しかし、カンペに書くのはもう既に10年以上変わらない進行の内容しか書いていないのだから、本来なら書く必要すら無い。仮に必要だとしても、構成台本からコピペした文章を引き延ばしてスケッチブックに貼り付ければどんなに早いか。

しかし、出演者が「手書きって読みやすいよねぇ」と何気なく発した言葉をそのまま真にとらえたせいで、いつまでもいつまでも手書きに囚われてしまっている。

それ以外にも、番組担当のAP(アシスタントプロデューサー)が自分の仕事をしないことも業務過多を誘発していた。

本来なら、APは演者ケア周りの担当として楽屋の準備や弁当の発注などをするべきなのに、それも全てこちらの仕事。
ロケ前はただでさえ意味のないリサーチ業務や、物資の準備などで忙しいのに、AP業務までやらなければならないせいで、環境は過酷を極めていた。

終電までに当時住んでいた実家に帰れればまだ良い方で、1:00〜3:00頃にタクシーで帰ってそのまま寝て、翌朝8:00に起きて10:00までには出社しなければならない。しかも、周りの先輩が怒るので満足に食事や休憩をとることもできない。そんな日々が続いた。

配属から半月ほどで、私は激しい頭痛をおぼえるようになった。市販の頭痛薬を飲めばある程度楽にはなるものの、服用してから1〜2時間ほどでまた激しい痛みがやってくる。
意識を保ち、立っているのがやっとで、リサーチのために訪れた図書館の隅で倒れるように仮眠をとっては、係の人に注意されていた。

意味のないリサーチ業務を抱えて、本来ならば休みのはずの土日にも出勤を命じられたが、どうにも体調が悪いので、家で仕事をさせてもらうことにして、私は真夜中に帰宅した。

明け方のことだ。
発熱独特の体の火照りと、吐き気を感じて起き上がると、私は弟に体温計と水を持ってくるよう頼んでトイレに行った。

トイレで吐きそうな身体をもたげると、頭痛で割れそうな頭を抱えきれない心地になって、そのまま倒れ込んで動けなくなった。

ただならぬ気配に気づいた祖母と父、私に言われたものを持って来た弟がトイレで倒れている私を発見してくれた。

「これはヤバい」
と一同が思って、父が代表して119に連絡し、近くにある緊急外来のある病院を案内してもらうと、車に私を担ぎ込んでそこへ向かった。

揺れる車の振動のすべてが頭に響いて、とにかく苦しかった。脳みその中で、全身に鋭利なスタッズを身につけたボブ・サップがギッタンバッコン暴れに暴れまくってるのではないかと思うくらい、頭痛はピークを迎えていた。このままでは、頭が爆発して死んでしまうと本気で思った。

病院に到着して診察室に担ぎ込まれる頃には、私の意識は朦朧しており、正直その時の記憶はほぼない。だから、以下から話すのはその時立ち合った父親から聞いた話である。

診察台に上げられた私は、医者が血液検査をするために注射器を差し込もうとすると、途端に激しく叫んで暴れはじめた。
医者と数人の看護師が私を押さえ込み、どうにか注射器を差し込むと獣のような叫び声を発する私の姿を父は見たという。

「これはもう、自分には手に負えない」
そう思った父は、実家の函館に帰省していた母親に連絡して、帰ってもらうよう頼んだ。
その頃、私は血液検査と髄液検査をガッチリ押さえ込まれた中で終え、呻き声をあげながら消沈しており、医者の診断を待った。

診断結果は髄膜炎。
とりあえずの抗生物質などを点滴で投与され、そのまま緊急入院という判断になった。

函館から慌てて帰って来た母が来ると、医師はγ-globulinの使用について許可を求めて、両親はそれを承諾した。γ-globulinは、私が2歳くらいの頃に川崎病になった際に使ったことがあり、その後の経過に異常もなかったので両親はある程度安心したらしい。

γ-globulinの投与により快方に向かい、私は特に何の後遺症も残らずにいた。医師は私の意識がハッキリしてきた頃にこう言った。

「あと少し病院に来るのが遅かったら、言語障害などが残ったと思います」

たまにこの言葉を思い出すと、私は恐ろしくなってしまう。言語障害が残っていたら、小説どころか今こうして日記を書くこともできないかもしれないし、今の生活もきっと送れていなかっただろう。
そうなったら、流石に生きる目標がない。
多分ここにすらいないだろう。

退院後、私は配属を変えてもらって比較的残業がなく、休みも取りやすい部署への配属となった。その中でとある先輩がこう言っていた。

「一度死んだようなものだから、もうあとの人生は余生みたいなものだ。好きに生きなさい」

私が病気で現場を離れた時、当時付き合っていたモラハラ気質のある彼氏から「じゃあもう未来がないじゃん!」と言われたのだが、それよりも先輩の言葉が心の底から有り難かった。

おかげさまでズルズル付き合いの続いた彼氏との縁も切って、好き勝手生きる勇気を得られたのだから。

そんな余生も始まってから早10年ほど。
今のところ後悔のない余生を送れている。

病になって良かったとは1ミリも思わないが、しかし無駄な現場から脱出するきっかけになったのだから、まぁ良いだろう。

さて、明日も続く余生を楽しもう。

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