#190 異邦人という理想像

旅行が好きだ。
以前、イタリアのローマからチェコのプラハまで電車で旅したことは別の旅行記としてまとめているが、海外に限らず国内でもどこでも旅をするのが好きだ。

地元では体験できないさまざまな文化や郷土料理、博物館や美術館に史跡など、旅にまつわる大半のことを好ましいと思うのだが、おそらくそれを裏付けているのは「異邦人として行動できることの喜び」が大きいのだと思う。

旅先において、私は異分子だ。

その土地にいる誰も彼もの人生や社会的活動に影響を与えるでもなく、ただやってきて通り過ぎるだけの存在。それは、ふいに吹いた風と変わらない薄さを持っており、それが永続的な関係性へと進化するかどうかも分からない。

それが心地よいのだ。

どういうわけか、私はとかく人から話しかけられたり、頼られたりすることの多い星のもとに生まれているようで、行く先々で不思議な関わり合いが生まれることが多い。

屋久島の食堂で声をかけてきて、翌朝には温泉や道の駅での買い物、自分たちが持っているお店へ連れて行ってくれたご夫婦や、金沢の兼六園でオススメの日本酒について話してきた男性、チェコで仲良くなったウェイターや、ローマの食堂にいたお姉さん、ヴェネチアの画家など、今あげただけでもかなりな頻度だ。
これはおかしい。

私から話しかけることがあるとすれば、それはその人がオフィシャルに担当するサービスに関してのことがほとんどであり(例:ホテルやレストラン、お店など)何か特別友達を作ろうとか、そういう思惑で関わることはないのに、何故か向こうから親しげに話しかけられることが多いのはつくづく不思議に思っている。

もちろん、中にはナンパとか詐欺とかを目的に声をかけてくる不埒な輩もいるのだが、相対的な数で見れば少ない方だと思う。

ふと思うのが、多分私は異邦人としての才能があるかもしれないのだ。

フラッとやってきて、その土地でのびのびと楽しく過ごし、知り合った人の人生に少しだけ触れ、気づくか気づかないか分からないほんの僅かな余韻だけ残して去っていく。

私と世界の関わり方というのは、多分これくらいが適正で、あまり深く入り込みすぎるとフラフラした風船に紐と重りを付けたくなってしまうのかもしれない。別にどこにも行きゃしないし、どこかに行ってもまたフラッと帰ってくるのにね。

さて、今年はどこへフラッと行こうか。
どんな出会いがあるか、今から楽しみだ。

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