#191 形而上的蕎麦
朝、日課の散歩で最寄駅の近くまで行くと、なんとも魅力的ないい匂いが鼻腔をくすぐった。
鰹出汁がきいて、醤油ベースのいかにも関東風な甘辛くて暖かいつゆに浮かぶ、くてっとした蕎麦、そしてその上に恭しく置かれた天ぷらさえ目に浮かぶような、駅ナカの立ち食い蕎麦屋の匂いがした。
「朝の時間の立ち食い蕎麦は魅力的だよなぁ」
と思いながら歩き、ふと気がついた。
あり得ない。
この時間に、いやこの場所でこの匂いがするわけがないのだ。
何故なら、この駅には立ち食い蕎麦屋が無い。
いや、駅どころか周辺には蕎麦屋なんて一軒もないし、蕎麦を出す店もない。
駅の周りにあるものといえば、数軒のコンビニやスーパーマーケットにドラッグストア、申し訳程度のしょぼくれたパン屋に、まだ開店していないハンバーガー屋くらいなもので、蕎麦の気配すらない。
もう一度空気を吸い込めば、確かにこれは蕎麦以外の何物でもない匂いだ。
では、この匂いはどこから来ているのか。
考えうる範囲では以下が私の中に浮かんだ。
1.近所のご家庭の朝ごはん
最も現実的なものがこれだろう。
駅近のマンションや住宅に住まう主婦が、昨晩の新年会で深酒しすぎた旦那を思って、朝から手間暇かけて作ったのかもしれない。
「あなた、今朝はお蕎麦にしたの」
「へぇ、珍しいじゃないか」
「昨晩かなり飲んだでしょう?こういう、お腹に優しいものがいいかと思って」
「ありがとう。でもこんなゲンコツみたいなかき揚げを乗せちゃ意味がないね」
みたいな。
2.駅員さんの朝ごはん
これも現実的な仮説だ。
朝のラッシュを少し過ぎて、事務所の片隅でインスタントの蕎麦でも作ったのかもしれない。
「おはよう、ヤマさん」
「あぁ、タクさん。今日も寒いね」
「まったくだよ。ここ来るまでに指先が悴んじまう……おや、タクさんこんな時間にゴハンかい?」
「いや、本当は来て早々に食べちまいたかったんだが、うっかり食べ損ねて今ささっと食べちまおうと思ってね」
「へぇ、そうかい。緑のたぬきか、いいねぇ。俺も昼は蕎麦にしようかな」
「お!出来た、いただき……あら」
「どうした、タクさん?」
「不思議だ……中身が赤いきつねになってる」
「化かされたんだね」
みたいな。
3.蕎麦を食いながら出勤した人の残り香
遅刻しそうになってパンやおにぎりを齧りながら走って駅に向かう人はたまに見かけるが、別にインスタントの蕎麦を掻き込みながら出勤する人がいてもおかしくはない。
「いっけなーい、遅刻遅刻ぅ!」
私、信州しなの!入社1年目のピチピチOL。
憧れの丸の内デビューが叶ったのはいいけど、上司の出雲課長がチョー怖くてガッカリ!
イケメンなのに、少しの遅刻でもめちゃくちゃ説教されるし、お腹を鳴らすとすぐ指摘してくるイヤなヤツ!早く蕎麦を食べて駅に向かわなきゃ……
ドン!
「いったぁーい!」
「いてて、すみません……って、あ!お前、しなのじゃないか!」
「ゲゲっ!い、出雲課長ォ〜?!」
「こんな時間じゃギリギリになるぞ……って、お前びしょ濡れじゃないか」
「課長がぶつかったせいで朝食のお蕎麦が溢れたんですぅ!どうしよう……服変えなきゃ」
「仕方ない。よそ見していた俺の責任だ。ゆっくりでいいから、慌てず来なさい。仕事のことは俺がやっておくから」
「課長……(え、意外と優しい。ちゃんと責任取ってくれるなんて、いい上司かも)」
「しなの」
出雲課長がしなのの頭に手を伸ばす。
「(え、えぇ〜近い〜!一体何をするつもり〜?)」
「頭にかき揚げ、ついてたぞ(サクッ)」
「んもぅっ!」
みたいな。
4.存在しない蕎麦屋がある
こんなくだらないことを考えながら、私は蕎麦の匂いがどこから来るのか辿っていた。高架下を過ぎて、向こうに見える横断歩道を目指して歩いていたはずなのに、気がつくと私は蕎麦屋の中にいた。
「いらっしゃい」
こじんまりとした店内は、まさしく駅ナカの立ち食い蕎麦屋らしい佇まいで、壁の上の方には長年の営業で蓄積したであろう油汚れが煤けていた。辺りにはまさしく私が追っていたあの甘辛い蕎麦つゆの香りで溢れている。
「何にしましょ?」
腰の曲がった店主がぶっきらぼうに問う。
私は注文カウンターに進み出て、上に張り出されたお品書きを見た。
「ええっと……」
お品書きには、かけ蕎麦、とろろ蕎麦、たまご蕎麦に続いて、ムンガリ天蕎麦、コヒメュコ天蕎麦、デゥカムパ天蕎麦、ノゲボンボケ天蕎麦と見慣れないものが並んでいる。
ムンガリ天蕎麦と書かれた札の上に、これまた年季の入った紙切れで「大人気」と書かれているので、私はそれを選んでみた。
「じゃあ、ムンガリ天蕎麦一つ」
「あいよ、ムンガリ一丁!」
人っこ一人いないカウンターの一角に収まって、店内を見渡してみる。よくある立ち食い蕎麦屋らしい佇まいなのに、ところどころがどこかおかしい。片隅に置かれた金色の招き猫は、招き猫らしい見た目はしているのに、目は6つ、服を招く右手は10本生えていた。
「あんなに腕があったら、福が舞い込んで舞い込んですごいだろうな」
と考えていると、カウンターから声がかかる。
「ムンガリのお客さまー!」
ご主人からムンガリ天蕎麦を受け取り、カウンターに置くと、嗅ぎ慣れたあの香りで肺の中が満たされる。
蕎麦は普通だ。何なら、少し濃いめの色で見たところは十割蕎麦のようだ。ふと見ると、受け取りカウンターの横に「当店は福井県産蕎麦粉を100%使用しております」と書かれている。
こだわりがあるようだ。
蕎麦つゆも見慣れた関東風の黒い色なのに、やはり異色なのはムンガリ天だ。
見た目は春菊の天ぷらに似ている。一房が末広がりで大きいのだが、しかし色は春菊とは程遠い。先端は衣の向こうにほのかなピンク色が透けて見えるが、全体は白っぽいようだ。
ムンガリ天を持ち上げて齧ってみる。
サクッと薄く揚げられた衣の向こうには、肉と魚と野菜のあらゆる要素が混ざったような味がした。
食感はナタデココと食器用スポンジの間のようで、味はカルシウムを増量させた魚肉ソーセージと、ソースをキレイに洗い流した冷凍ミートボールと、キュウリの真ん中部分を混ぜたようであった。
美味しかった。