「苔むさズ」 #06
埠頭近くのカフェでマイセンをふかしながら待っていてくれたショウタ君の顔は憔悴しきっていた。
「コーヒーでも頼んでから座りなよ」
とショウタ君が言うので、そのカフェでこの後2人がかわす会話とその結果次第で、その後の夕食の計画は私の淡い期待に反して、急遽なくなるのだろうと感じた。
「オケー。」
と、聞こえるか聞こえないかの小さな声で呟くと私はレジカウンターへ行き、メニューからカフェオレを選んだ。
ここのカフェはロケーションが人気だが、出すものはお世辞にも評価できるものではない。
何を注文しても一緒だ。
カウンター内でノロノロと若い背の高いお兄さんが、カフェオレを作っている。
何故か私はイライラしていた。カフェオレのお兄さんはあくまでもきっかけであって、イライラの根本はこの後のショウタ君との結末をどのような結果になろうとも消化できそうもない自分自信の精神の弱さだった。
そんな自分に嫌気がさす瞬間に、この背の高いカフェオレのお兄さんのように、ノロノロと優雅に周囲を気にせずに振る舞えたらどんなにいいだろうと感じた。
振り返ると、ショウタ君はさっきまでの憂いを含んだ様子から一転、A5サイズ程の自らこだわって作ったレザーカバー付きのノートに、受験直前の学生の様に必死で何かを書き込んでいる。
その姿をみると、私は突然ショウタ君を手放す事への抵抗を感じ、居ても立っても居られない気分になった。
彼にはウソのないひたむきさがあり、その姿ひとつひとつが私の好奇心の全てを注がれる恐ろしい力をもっていた。
美大時代の課題に対しては、教授が設定している大まかな理想的な作品像に対して、それが自分の意図にあっている場合は素直にストレートな表現方法で造形物を完成させることができた。
ただし、教授の出す課題自体がナンセンスだと感じ自分の求める美を表現できそうもないときは、造形物自体のスケッチと一緒に文章で自分なりの理論を事細かく記録し続け、結論が出るまでエスキース帳や油土に手をつける事は一切なかった。
しまいには、結論が出ないまま何も形にできず、1課題分の点数をもらえないというエピソードもあった。
そんな学生の時の要領で、ショウタ君はメモを取り続けている。芸術に対するひたむきな部分が尊敬できる反面、大人らしかったり子供っぽかったり、その七変化が可愛らしく、私の母性をくすぐった。
そして、実際未だに私はこの母性愛と彼への憧れは全く終息しそうになかった。
カフェオレのお兄さんが、アメリカンサイズの特大のカップに入ったカフェオレをソーサーごとカウンター越しにカタカタと音を立てながら不器用そうに差し出した。ショウタ君が座っているカウンターテーブルの高いスツールに横並びで座ってカウンターに目をやると、ショウタ君のメモ帳には、説明なしでは認識不可能な数々の有機形態とその横に文字がたくさん書き込まれていたが、そのスケッチと文字のセットにはそれぞれきちんと1.2.3.と番号が振られていた。
「これが、なっちゃんとエリコと俺をとりまく目に見えない空気の流れだと思う。」
「なっちゃん、かぁ…。」と呟くと
「なっちゃんが、俺の吸う空気に入ってきた」とショウタ君が溜息混じりに苦しそうに答えた。
「そうか。名前は初めて聞いたから」私が答えると、ショウタ君はただ、
「そうだよね。」
とだけいってブラックコーヒーをすすった。
その後、長い長い沈黙があり、
ショウタ君はマイセンに火をつけた。
3回ほど煙を吐き出して灰皿に1度置いた時に、
そのマイセンを一口だまって私も吸った。
ニコチンが強すぎて頭が一気にぼーっとする。
どのくらいたったのだろう、飲んでいるカフェオレがなくなりそうだったので私は居心地が悪くなり、自分から問いかける事にした。
「このメモなに?」私が聞くと、ショウタ君は堰を切ったように、いつもよりも低く落ち着いた声で話し始めた。
「昨年の秋から、エリコと俺のなかに入り込んできた、なっちゃんという新しい空気の流れの移り変わりを記録してきた。
彼女は、賑やかなエリコと違って、こう… 静かに空気の様に横に座っているだけで包み込まれちゃうんだ。
でもさ、エリコはね、ずっとこの記録を取り続けながら、何度もなっちゃんの優しい空気の中に、押し寄せる波の様に上から覆いかぶさってまた俺を戻して行ってしまう。
だから、俺は毎日なっちゃんとエリコをそれぞれ空気と波の形態で大きさや入り込む形状を感じながらスケッチにして、そのレベルを5段階に分けて日付と一緒に記録をつける事にしたんだ。
だってそうしないと、気持ちが落ち着かなかったんだよ。
俺も気持ちを定めなければいけないから。」
あまりにも苦しそうにショウタ君が話している姿をみて、
私はそのスケッチや、なっちゃんという存在や、私が波で表現されていてショウタ君の気持ちを未だ時折呼び戻している事実なんかより、
今のショウタ君が可哀想なあまり、できればギュと抱きしめたい衝動にもかられて仕方がなかった。
なぜなら苦しそうにもがき苦しみ、顔つきはまるで犯罪者の様に青黒く沈みこんでいるこのショウタ君になんの落ち度もないはずだったし、
少なくとも、ショウタ君となっちゃんと私の3人の中では、この状態を誰よりも1番真剣に悩み苦しんでいたはずだったからだ。
「で、記録の結果、分析はできたの?」
私がたずねると、ショウタ君は
「うん、俺はなっちゃんとエリコが両方好きで両方と続けようと思っている」と、悩んでいる割には、こちらにとって衝撃的なあっけらかんとした結論を突然打ち明けた。
私は遠くを見ていた。高速道路の灯りが埠頭近くの海水の水面をゆらゆらと相変わらず揺れている。大観覧車の灯りは大分離れているが300Mほど先の遠く停泊した船の近くで一人楽しげにひときわ明るいネオンを水面に踊らせている。その先には、モトヒロさんやサヤさんや私たちが働く職場のあるビルがあった。
なぜか、私はこの時ショウタ君よりも、柄の悪い態度や何をやっても開けっぴろげな下品だがわかりやすいモトヒロさんと会いたくなった。
私は自分で、自分が何か見えない殻の様なものから脱皮していくのを感じた。
ショウタ君には悪かったけど、どうしてもこのままその空間に居ることが、あまりにも息苦しく、
「ごめん、今日は帰るね」と、突然言うと
私はカフェオレのお兄さんがノロノロと吹いている窓を横切り、真夏の夜の外に1人で飛び出した。そのまま帰宅するはずだったのに何故か足は大観覧車の先の、モトヒロさんやゴリさんが残業していると思われる仕事場に向いていた。
[続く]