山崎隆之八段をただ賛美したい

ロジャー・フェデラーのいないオーストラリアンオープンが開幕した。
今年はなんとなく誰を応援するでもなく観戦することになりそうである。

ここ20年くらいの将棋界とテニス界はよく似ているな、個人的には思っている。

将棋にもテニスにも興味の無い人にとってはなんのこっちゃの2乗なことは重々承知だ。
重々承知すぎて私生活において共感を得るチャンスがインターネットの世界以上に全く無いのもまた承知しておいてもらいたいものである。

歴史的にみても信じられないような濃厚で重厚な同世代の一部宇宙人たちでタイトルを独占し、それが全然終わる気配がなく、それを崩すと思われた次世代の有望な若手は有望なまま、壁を崩せないままさらに下の世代に飲み込まれ、ここにきてようやく、その100年後の競技の教科書に載るような人たちの時代が終焉を迎えようという気配が漂ってきているのだ。

また、その信じられない世代の筆頭、羽生九段、ロジャー・フェデラーが
ともに競技を象徴するアイコンでありながら、恐るべき人格者であり、なにより、単体で見たときに、誰が見ても一番ワクワクするようなプレイスタイルで魅了し、なおかつおとぎ話ようなキャリアを積み重ねるという意味で特によく似ている。

ひとつ違うのは将棋界には藤井聡太二冠というまぎれもない本物の後継者が出現したが、テニス界はその座を狙って10選手程度が争っているということくらいだろうか。

日本の男子テニス界のアイコンは錦織圭である。
ここは断言して良い。
しかしまあ、錦織選手の一番良い時代、
よしよし。とても良い状態でファーストウィークを勝ち上がったぞ。どれどれ、と、トーナメント表を眺めると、なるほど、準々決勝でナダル(現在グランドスラム20勝)に勝って、準決勝でジョコビッチ(同17勝)に勝って決勝でフェデラー(同20勝)に勝てばいいんだな。
というなんとも言えない絶望感によく打ちひしがれたものである。

将棋界もしかりである。
応援している棋士が良いところまで行き、よし!あとは佐藤康光九段(永世棋聖)に勝って森内九段(永世名人)に勝てば、最後に羽生九段(羽生)に番勝負に勝ってついにタイトル獲得だな!
のような、とてもあまたの強豪を倒し、準々決勝まで勝ち上がったとは思えない仕打ちに絶望したものである。

その羽生世代もついに50代を迎え力に陰りを見せ、長きに渡って羽生世代と一人で戦ってきた渡辺名人が全盛期とも言える30歳前後の棋士や藤井二冠が争う新時代に完全に突入としたと言って差し支えないだろう。

以上が前置きである。
前菜にカツ丼を出すような長さであるが。
忘れて欲しく無いのである。
羽生世代との戦いを渡辺名人一人に押し付け、永遠の期待の若手から残念四天王にクラスチェンジをした現在アラフォーの数人の強豪棋士たちのことを。

私は彼らと同世代である。
よくインターネット上ではネタキャラのような扱われ方もするが紛れもなく強豪棋士なのである。
その筆頭格が山崎隆之八段なのである。
詳しい経歴等はwikipediaでも見れば書いてあるので私のようなものが改めて語るまでも無いのだが、

この人。
魅力的なのである。

まず負けた時の感想戦が魅力的なのである。
通常大事な将棋を負けた時の感想戦は辛くて見てられない。
それが逆転負けをした時など、取り繕った平静から無念が滲み出るか
もはや取り繕う事もできずで見ていて本当に辛いのだ。
山崎八段は違う。
取り繕う事もせず、別にウケを狙うわけでもなくただ無念さを垂れ流すだけなのに何故か笑えるのだ。
哀愁と悲哀とユーモアがまじって何故かわらけてくるのである。

「この将棋を負けられるの私くらいですよね。」
「大事に行こうとか思っちゃいけないんですよね。下手なんだから。」

もうただの愚痴でしかない。
叡王戦で橋本八段に信じられない痛恨の大逆転負けを喫した時などもう最高のエンターテイメントだった。


「何回勝ち逃してるんだろうね。」から始まり、
「お酒でも飲めればこういう時ってお酒飲むんだろうね。」
「オレ弱いね」

と怒涛の独り言が続き、
橋本八段が気遣って、
「いやでもこの構想はすごかったです」
などフォローしようものなら
「数少ない引き出し使ってさ。せめて勝たないとね。意味無いよね。
数少ない引き出し使って負けて、もう俺にはなにも残ってないよ。」

と、全力で咎めに行くのだ。

そしてとどめの
「笑っていいよ」
の捨て台詞とともに感想戦をお開きにした。

笑ってるこちらも不思議なのだ。
決してバカになどしていないし、悔しさを本人とは比べるものでは無いが応援している身としては多少なりとも共有しているつもりだ。
なのに笑ってしまうのである。

勝った時のインタビューなどさらに酷い。
滑舌もよく、明瞭な声で、専門用語も極力使わず、なのに、
方々に気を遣いすぎて、ただ長いだけでまるでなにを言いたいのか全く伝わってこないのだ。
例えば、

今日はとても気合を入れて準備をしてきました。
ある程度、思惑通り進んで、この辺りで勝ちを意識しました。
次もまた頑張ります。応援よろしくお願いします。

というようなことを言えばだいたい勝利者インタビューなど終わりである。
それが、

今日は、
(あ、でもこの言い方すると他は力入れて無いみたになるかな。)
いや、普段も準備はしてるんですけど、今日はこういう棋戦で、
前回より期間も空いたので準備をする時間もあったし、前回、〇〇さんには痛い目に遭ってるので今回は前回と同じようにならないように
気合を入れて、
(あーでも俺の気合の入れ方って他の人と比べたら大したことないよな。)
まあ、他の人と比べたらどうかわからないですけど、自分なりには、そうですね。はい。

ある程度思惑通りに、
(こういう言い方したら相手を罠に嵌めたみたいになっちゃうかな。)
いや、途中で、自分でもなにをやってるんだからわからないような、迷うような局面もあったんですけど、上手く指せた
(これだと俺が強いみたいになっちゃうかな)
まあ、たまたま、結果的に運がよかったというか、そうですね。はい。

この辺りで勝ちを
(これって相手がミスした場所を指摘するみたいになっちゃうかな)
いや、まぁ、実際には調べてみないとわからないですし、僕も具体的には見えてなかったんですけど、自分なりにそんな悪くないんじゃないかなと思ってたんですけど、でも相手にいい手があれば、全然まだわからないかなっていうか、僕は勝手に良いと思って、なんていうかそうですね。はい。

次も、
(でも他の棋戦は頑張らないみたいに思われないかな・・)
いや、次、また別の棋戦もあるんですけど、それも一生懸命やるのは変わらないんですけど、せっかく良いところまできたので、まあ本当は1回戦でも同じようにやらなきゃいけないんですけど、珍しく勝ち上がってるのでそうですね。はい。頑張ります。

応援を
(こう言うと俺のファンがたくさん居ると思ってるみたいに思われちゃうかな)
まあ、僕を応援してくれる人いるかわからないですけど、仮に居るのであれば、そうですね、勝てるように、まあ結果はわからないですけど、相手もみんな僕より強いですから勝てるとは言えないですけど、良い将棋を
(良い将棋って自分で言うのもな。。。)
僕なりに面白い将棋を指せるように、そうですね。はい。


具体例はなく全て私の創作なのだが大体こんな感じになるのである。
見ていてもドキドキするのだ。
それがまたたまらないである。

そして、何より将棋が面白いのである。

私は弱いので具体的な戦型、棋譜については語れない。
が、将棋中継を見ていると、流行りの将棋ばかりで正直私のようなレベルだといっつも違いがわからず結構飽きるのである。

あー今日も角換わりか。
それがわかった時点で基本的に午前中は棋譜を追わない。
最先端のトッププロの細かい機微や工夫は正直全然わからないのである。

山崎将棋は違う。
将棋を覚えたてのころの、将棋がどこまでも自由だと思っていたころの、
真っ白なキャンパスに描きたい絵を描くような世界が広がって居るのである。

言い方が難しいのだが、定跡が悪いわけでは無い。
ただ、本当はなにも戦型や戦法など知らない頃の純粋にやりたい手を好きなように指したいと言う気持ちがきっと誰でもあるのである。

ただ、普通必ず、負けるのである。
自分より強い相手に通用しないのである。
なので、皆、
好き嫌い、得意不得意はあれど、勝てないまでも負けにくい形を覚えて、
迎え撃つのである。
弱者の私など、これにはこれ、あれにはあれ、というもう完全に決まった形で戦っている。そしてはっきり言って飽きている。

山崎将棋は違う。

やりたいことだけをやっている。
素人の私でも盤面を見ただけで山崎将棋とわかるような見た事も無いような、ワクワクする世界を創っていくのである。

なおかつそれで強いのである。
長く、タイトルにも手が届かずA級にも上がれなかったが、逆な言い方をすれば、そんな棋士は山ほどいる。というかほとんどの棋士がそうである。

A級を期待され続けるのはその一つ下のB級1組で戦い続けて居るからに他ならない。

そして、見ている誰もがワクワクするような完全オリジナルな将棋でいつのまにか優勢を築き、感情が手に取るようにわかるような勝ち急ぎ、あるいは、大事に行き過ぎ手痛い逆転負けを繰り返す様にファンは感情移入するのである。

ファンが憧れる才能、共感できる弱さ、目が離せない危なっかしい庶民的な人柄。
超絶高いレベルで戦っていることを少し忘れてしまうような親しみやすい魅力が山崎隆之八段にはあるのだ。
それは、羽生九段や藤井二冠などの完全無欠のスーパースターとはまた違った、スーパースターには出せない危なっかしい、俺たちが応援しないと!と思わせる魅力が、全盛期のAKB商法のような魅力が存在するのだ。

そんな山崎隆之八段が40歳を目前に控えてA級昇格を決めたのである。
あの夜のことを私は生涯忘れないだろう。
家で一人で棋譜やtwitterを追っていたが、
何故か、私は一人では無いと感じた。
会う事も、見る事も、話すことも今後もないであろう将棋ファンの思念が一つになって、
山崎八段のA級昇格を願ったのだ。
おそらく同じ気持ちで。
どんな勝ち方でもいい。
入玉でも相手の時間切れでもなんでも、良い。
とにかく勝ってくれやまちゃん。
案の定わけのわからない将棋を競り負けた時点で誰もガッカリする事なく受け入れ、どこかで最終局直接対決では正直無理なんじゃないかと悲観し、
しかし、負けた山崎八段を責める気にもならず、
ただただ、松尾八段の粘りと逆転を願った夜を。

郷田九段が投了した瞬間に頭の中で
私的山崎隆之名場面集がフラッシュバックし、涙した夜を。

来期、A級順位戦で山崎将棋を応援できるのだ。
通常、おめでとうと言う場面なのだろうが、今回は少し違う。
やまちゃんありがとう。
私たちに山崎将棋をA級で堪能できる機会をくれてありがとうございます。
と心から言いたい。

とても誤解を招く言い方をすれば、仮に、結果的に、名人挑戦を果たさなくとも、1期でB級1組に戻ってこようとも、山崎隆之八段が山崎隆之八段でいてくれるのであれば、おそらく山崎ファンは誰も応援していることを
後悔などしない。

どんな結果になろうとも、

そんなやまちゃんが全部好き。今までも。これからも。

である。

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