伊達騒動と樅の木は残った その5(最終回)
さて、お伝えしてしてきたように、原田家は御家断絶となってしまいました。
妻の津田氏は伊達上野へ預けられ、長男の帯刀、弟の伸次郎、喜平次、五郎兵衛は切腹、帯刀の子采女、伊織も殺害されます。
しかし、この時甲斐の子を懐妊していた妻は実家に戻され、ひそかに出産をしました。
産まれた子は、後に越後の堀丹後守の食客となりました。こうして、絶えたと思われていた甲斐の直系は残ったのです。
また、甲斐の死後、仙台の原田家の屋敷は跡形もなく取り壊されましたが、薬医門だけが残りました。この門を解体しようとしましたが、怪我人が出るなどしたため、燃やす事になりました。
ところが、今度は子供の泣き声が聞こえてくるようになりました。
当時仙台の荘厳寺の住職は伊達藩の信望も深く、藩の許しを得て、悪を善にするという意味でこの門を左右、上下逆にして荘厳寺に移築し、その霊を弔ったと言われています。
そのため、この門は「逆さ門」と言われて今に伝わっています。
写真はグーグルマップのものです。
これで伊達騒動と樅の木は残ったは終わりです。
最後までお読み頂き、ありがとうございました。
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