洞爺丸沈没 その1(全9話)
はじめに
1912年に北大西洋で豪華客船タイタニック号が氷山と衝突したことが原因で沈没し、1,513人の死者を出しました。
遡ると1865年にミシシッピ川でサルタナ号という貨客船が爆発によって沈没し、1,450人以上の死者を出しています。
そして1954年に、わが国で1,430名の死者を出した洞爺丸事故が発生しました。海難事故に限れば、世界海難史上2番目の犠牲者数になります。(それぞれの犠牲者数は資料によって若干異なります)
この原因となった台風は洞爺丸台風と呼ばれ、洞爺丸が沈んだことは多くの人に知られていますが、この時に沈没した船は洞爺丸だけではありません、一夜にして実に5隻もの青函連絡船が函館湾で沈没したのです。
洞爺丸は青森-函館間を結ぶ青函航路に就航していた青函連絡船の名前です。戦後に建造され、全長118,7m、最大速力17.5ノット(約32km/h)、定員数932名、積載貨車数18両、乗組員128人、を誇る最新鋭の貨客船でした。
本州と北海道を結ぶのは海路しかなく、当時の物流の主力であった鉄道貨物を輸送するために、船体にレールが敷かれており、埠頭からそのまま貨車を積み込む事ができるようになっていました。
この他にも客を乗せない貨物専用の連絡船や、人だけを乗せる連絡船もあり、青森-函館間を4時間30分程度で結んでいました。
戦時中にすべての青函連絡船が空襲を受けて稼働不能になってしまい、本州と北海道の輸送力はかなり貧弱なものになっていました。日本を占領統治していたGHQは朝鮮戦争の関係もあり、大量の兵員や物資を輸送するために、青函航路の稼働率アップを強く指示するとともに、LSTと呼ばれる戦車揚陸艦を貸与して、貨客車の運搬ができるようにレールを敷設する改造を施し、就航させていました。
当時大兵員を移動させるのに、ヤンキー・リミテッドなどと呼ばれるGHQ専用列車が運行されており、そのまま車両を船に積み込んで、目的地に着いたらまた列車で走り出すことができる、車両が運搬できるタイプの連絡船は重宝していたのでした。
台風15号
1954年9月21日にカロリン諸島付近で発生した台風15号はすぐに勢力を弱め、熱帯低気圧に変わりました。しかし23日には勢力を強めて再び台風になり、発達しながら西に向かいました。
やがて台湾の手前で向きを北東に変えて、26日未明に鹿児島県に上陸しました。この時の勢力は965Hp(当時はミリバール)最大風速40mでした。
ちなみに当時の気象予報について記しておくと、今のように衛星や気象レーダー、アメダスなどが無い時代です。
そのため、決まった時間に全国の観測地点や洋上の船から気圧、風速、風向、気温、湿度といった情報が電話や電信で気象庁へ報告され、気象庁ではその情報を元に天気図を作成します。
それを元に予報や台風の情報をラジオで放送しますので「台風〇号は××付近にあると思われます」という表現ではなく、「台風〇号は何時の時点で××にいました」という、過去の状況を伝える事になり、リアルタイムの状況や急激な変化があった場合の対応はできませんでした。
ここで函館と青森の地形を確認しておきましょう。
函館は小さな湾を出るとすぐに外海です。風もまとに受ける事になります。一方の青森ですが、大きな陸奥湾の底に位置しています。つまり、外海は荒れていても陸奥湾は大きな防波堤に囲まれているようなもので、波はそれほどでもありません。津軽海峡に出て、初めて波や風を受けるようになります。
では、これから9月26日の洞爺丸と台風の動きを追ってみましょう。