見出し画像

見仏上人シリーズ 松島寺

地元に残る言い伝えから始まって、シリーズ化する事に決めて3回目の話になります。

1回目と2回目のお話はこちらから。

宮千代伝説に、松島寺まつしまでらというお寺が出てきます。
本やネットには、瑞巌寺の古い呼び名とか、瑞巌寺の前身というような事が書いてあり、僕も宮千代の話でそう書きました。

ところが調べてみると、松島寺はどこにあったかがわからないのです。
瑞巌寺の前身というぐらいなので、近くか同じ場所にありそうですが、正確な記録が残っていません。

しかし実在した事は間違いないので、見仏上人が居たと言われる松島寺について調べてみました。

そもそもの起こりは、淳和天皇じゅんなてんのうの御代天長5年(828年)というからかなり古いですが、慈覚大師じかくだいし勅宣ちょくせんを受けて、比叡山の山王権現の神輿を奉じてこの地にやって来て、天台宗の寺を建てたのが始まりです。

ちなみに828年といえば、平安時代です。
801年に坂上田村麻呂が征夷大将軍として、蝦夷征伐のため陸奥へ遠征しています。それぐらい昔の話です。

慈覚大師 あるある言いたそうなお顔です

皆さんご存じだと思いますが、慈覚大師はまたの名を円仁えんにんといいます。
円仁と言えば、最澄の愛弟子で後に延暦寺の座主になる人で、あの山形県にある山寺、立石寺りっしゃくじや恐山を開いた人です。
過去の記事と色々繋がってきましたね。
ちなみに中尊寺や浅草寺などもそうらしいです。

浄土宗の開祖法然は、円仁の衣をまといながら死んでいったそうです。
円仁はそれぐらい凄い人です。

法然上人


円仁は新日本プロレスで言うなら、猪木の次の坂口征二といったところ。
すみません、わかりにくいですね。

その円仁ですが、建立したお寺を延暦寺に倣って延福寺えんぷくじと名付けました。
山号は青竜山としました。そしてこの地に三千人の宗徒を移住させました。
この延福寺を通称松島寺と呼びます。

ちなみにヘッダの画像は、この後の円福寺時代のものです。

しかしほどなくして寺は無住となります。
879年に叡山より円心がやってきて、第2世住持となりました。
その後も名だたる名僧がやってきて住持になるのですが、何故か5年と続く人がおらず、970年に叡山から覚心がまたも勅宣を受けて松島へやって来ると、第23世住持となりました。
この頃になると、かなり寺は荒れていたようです。

さて、ここまで書いて気付いている方もいるかもしれませんが、瑞巌寺とは宗派が異なります。

前回の記事で瑞巌寺は臨済宗妙心寺派だと書きました。
ところが慈覚大師は最澄の愛弟子、つまり天台宗です。
実は松島寺は途中で宗派が変わっているのですが、信憑性の高い資料が無くその理由は諸説あります。
いずれも面白い話ではありますが、鎌倉幕府執権の北条時頼が関係しているのは確かなようです。

北条時頼

いくつかを紹介してみましょう。

1248年4月14日、松島寺で山王権現の祭礼がありました。
住持はじめ三千宗徒が神輿を守り、神楽を行い五大堂ごだいどう(五大堂については次回の記事で取り上げる予定です)で舞楽を演奏するなど、それは素晴らしいものでした。
それを、出家して東国を回って修行していた北条時頼も群衆に混じって見物していました。(水戸黄門みたいですね)
あまりの見事さに、つい大声でこれを褒めてしまいました。
まぁ、ヤジを飛ばしたような感じなのでしょう。

それで座が白けてしまい、祭りを邪魔したと怒った群衆や宗徒に殺されそうになります。
何人かの僧の助けを借りて、時頼は辛うじてその場を逃げ出すことに成功しました。
なんとか近くの岩窟に逃げ込むと、そこでは法身性西ほっしんしょうざい面壁めんぺきの修行をしていました。
そこで法身の高徳な事を知り、鎌倉に戻った時頼は三浦小次郎義成みうらこじろうよしなりに兵1000を預けて松島に向かわせ、延福寺の住持儀仁ぎじんを捉えて佐渡に流しました。
またそこにいた宗徒をことごとく追い払いました。

法身が修行していた法身窟 瑞巌寺の境内に今もあります

慈覚大師の開いた松島寺は430年で滅んで、1259年に臨済宗に改宗し代わって法身が住持となりました。
この時寺の名前も延福寺から円福寺に変わっています。延暦寺の「延」を嫌ったのでしょう。

これが一つ目の話です。
いわゆる時頼の廻国伝説というやつですね。夜中に突然訪ねてきて、人の大事な盆栽を焚きつけに使わせたり、あちこちで色々な事をしています。
時頼が松島に来たというのは作り話だと思いますが、それ以外は概ね事実だと思います。

大切な盆栽を・・・

もう一つの話はこうです。
法身が鎌倉の建長寺にいた時に、延福寺を臨済宗に改めるよう時頼の依頼があり、この時70歳を過ぎていた法身ですが、松島へ赴いて延福寺を改宗したというものです。
松尾芭蕉も奥の細道に「真壁の平四郎が宋より帰朝した後開山した」と記しています。
真壁の平四郎とは法身の事で、もとは常陸の国の真壁時幹まかべときもとに仕えていた武士です。
また、法身が建長寺にいたのも事実です。

実際は二番目の話のような事があり、兵とともに向かわせたのではないかと思います。
時頼は禅に傾倒していたので、臨済宗の有力な寺を増やしたかったのではないでしょうか。

こうして改宗した円福寺は、将軍家の関東御祈祷所かんとうごきとうしょに任ぜられました。
これは将軍家の保護下に入る事を意味しますが、さらに北条家の保護を受け、関東十刹の一つに数えられました。

しかし後の火災などにより円福寺は衰退し、廃墟同然の荒れ寺となり、政宗による再興を待つのです。

実は松島というところは古くからの霊場で、地質が凝灰岩や火砕屑岩といったものが多く、簡単に削る事ができるために至る所に岩窟があり、摩崖仏や石碑、板碑、供養塔なども多くあり、昔から修行をする僧侶や行者がたくさんいました。


瑞巌寺の隣にある臨済宗円通院の岩窟群
真ん中は以前紹介した、蔵王の噴火を鎮めにいった伊達宗高と殉死者の供養塔

上の話でも出てきた法身も岩窟で修行中でした。

さて、ここまで読んで頂いてから言うのもなんですが、見仏上人のけの字も出てきていませんね。
それもそのはず、見仏上人は松島寺の住持ではありません
霊場松島で修行している行者でした。
瑞巌寺(松島寺)のすぐ近くにある雄島おしまという小さな島に籠って修行をしていたのです。
雄島については、このシリーズの一環として、近いうちに書く予定です。

瑞巌寺から歩いて15分といった距離感

宮千代の伝説では、松島寺の稚児である宮千代と、その師匠である見仏上人が出てきました。
そこで見仏上人って何者?というわけでこのシリーズを書き始めたのですが、見仏上人は松島寺の住持では無い事がわかりました。

見仏上人が松島寺の住持で無いとすると、宮千代が属していたのが松島寺ではなかったか、お師匠さんが見仏上人では無かったか、はたまた全くの作り話だったかという事になります。

ここからは僕の想像になりますが、もともと宮千代伝説の元になる事件があって、それは恐らく子供が亡くなった悲惨なもので、人々の口にのぼったのだと思います。
当時の人たちは、その可哀そうな子供の霊を慰めるには、ただ埋葬して弔うだけでは足りないと思ったのでしょう。
そこで成仏して欲しいという思いで、その頃地元で有名だった名のある高僧の力を借りたのではないでしょうか。

その高僧は松島寺の住持でも良かったのでしょうが、庶民に名前が知られているわけでもなく、言ってしまえばただの偉いお坊さんです。
それよりは、不思議な力を持つと言われている見仏上人の方が、当時の人々にも知れ渡っていたのではないでしょうか。
不思議な力を持つという見仏上人であれば、未練を残して亡くなった可哀そうな子供の霊も見事に成仏させてくれる、そんな思いで、宮千代と見物上人は師弟関係という伝説になったのだと思います。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?