日本と土耳古 その2(全5話)
帰国
救助されたもののうち、怪我を負っているものは病院に運ぶ必要がありました。丁度この時神戸に停泊していたドイツの軍艦ウォルフ号が駆け付け、元気なものも含めて神戸まで運ぶ事ができました。
また明治天皇は宮内省式部官を軍艦八重山で派遣し、皇后は生存者たちに病床衣料を贈りました。
9月21日には、樫野に残った責任者たちと、海軍の軍艦八重山の乗組員、村人などの臨席のもと遺体の埋葬が執り行われました。彼らはエルトゥールル号が沈んだ海を見渡せる地に埋葬されたのでした。
この後樫野に残っていた者たちは遺品と一緒に、八重山で神戸まで移動しました。
さて、彼らは一体どこから何のためにやってきたのでしょうか。
1887年(明治20年)に小松宮明人親王がイスタンブールを訪問した事への答礼使節で、東京で明治天皇に拝謁しオスマン帝国の最高勲章を奉呈した帰路に遭難したのでした。
沈んだのは国交がまだ樹立していない国の軍艦でしたが、近代国家を目指す明治政府の動きは早く、9月26日には軍艦比叡と金剛で生存者69名を本国へ送還する事を決定しました。
二隻で向かう事になったのは、万が一事故が起きた時でも万全を期せるようにという明治天皇の意向だと言われています。
この事件が報道されると新聞社はこぞって義捐金を募り、たちまち5千円(現在の1億円)が集まりました。また生存者は煙草が好きだという報道が流れると、全国から煙草が贈られました。
こうして10月11日に比叡と金剛は生存者を乗せてトルコへ向けて出港しました。
船隊はスエズ運河を通り、エジプトのポートサイドに着きました。そこからコンスタンティノーブル(現イスタンブール)へ向かおうとした時、問題が起こりました。
1856年にオスマン帝国と欧州各国が交わしたパリ条約で、オスマン帝国以外の軍艦はダーダネルス海峡を通過できない決まりになっていたのです。
国際条約を破るわけにはいかず、エーゲ海に面したイズミルという町の沖合で、トルコ軍艦に生存者を移乗させるようトルコから申し出がありました。
しかし比叡の田中艦長は「天皇陛下の国書を奉じている以上、あくまで二隻でコンスタンティノーブルに向かいたい」と返答しました。
この返答を聞いた皇帝アブデュルハミト二世は、国際条約を無視して「海峡を解放せよ」と命じ、二隻のダーダネルス海峡通過を許可したのでした。
こうして翌1891年1月2日、無事コンスタンティノーブルに入港する事ができました。
歓迎
船隊は盛大な歓迎を受け、特に士官以上の乗組員はドルマバフチェ宮殿を宿舎としてあてがわれました。
5日には、士官以上の乗組員が皇帝アブデュルハミト二世に拝謁し、天皇の親書を渡すことができました。
船隊は一か月余りも滞在したのち、2月10日に帰国の途へ就いたのでした。
船隊が出発する際は、オスマン帝国の文武百官をはじめ、エルトゥールル号の生存者や家族、多くの市民も押し寄せ見送ったのでした。
余談ですが、この時の乗組員には後に連合艦隊参謀として日露戦争で活躍する、秋山真之もいました。
この後1904年に日露戦争が始まりますが、常にロシアの南下政策に圧迫されていたオスマン帝国は、日本の勝利を受けて沸き返りました。
やがて1923年にトルコ共和国が誕生し、翌年ようやく日土間で正式に国交が樹立されました。
やがて月日が経つと、エルトゥールル号の話はいつしか日本人の記憶からは消えて行きました。
その3へつづく
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