亀山さんの話 その2
-じゃぁ、亀山さんどうぞ話してください。
「亀山イサオ、イサオは勲章の勲と書きます」
「大正9年(1920年)2月10日台湾生まれで、両親は宮城県鳴瀬町小野の出身。父親は特高警察の一期生でした」
特高警察:日本の秘密警察で、思想犯などを取り締まった
「小学校4年か5年の頃に支那事変が起きたと思うな」
支那事変:1937年7月7日の盧溝橋事件、8月に上海でも武力衝突が起きると正式な名称として「支那事変」と命名された。
だとすると歳が合わないので、"中学校4年か5年"の聞き間違いかもしれない。
「中学2年の時に胸の病気になって一年留年しました」
中学:旧制中学校の事で、6年制の尋常小学校の後に入るもので、5年制。なので14歳頃の出来事。
「台南一中から嘉義中学に転校して、斗六から通いました」
台南一中:国立台南第一高級中学。
嘉義中学:台南州立嘉義中学校だと思われます。
斗六:台湾雲林県東部に位置する県内最大の都市。
「台湾はそこかしこにマンゴーやパパイヤ、バナナ、果物が生えてるんだ。それを獲って食べてた。それはうまくてなぁ。最近はスーパーでもマンゴーなんか買えるけど、うまくないなあれは。できればもう一度台湾に行きたいねぇ」
「高専に行くつもりだったが、所沢陸軍航空整備学校に入りました。在学中の3年生の時に徴兵が来て、八戸の第6航空教育隊に入隊しました。21歳になっていました」
高専:今の高専とは異なる旧制の専門学校。今の大学に準ずる存在。
八戸の第6航空教育隊:昭和14年に八戸飛行場の建設が始まり第95飛行場大隊が駐屯。昭和16年(1941年)に竣工、八戸少年飛行隊、中部軍直協飛行隊などを設置、所沢陸軍航空整備学校八戸教育隊、第102教育戦隊、第6航空教育隊飛行第75戦隊、独立43中隊などが駐屯していた。
つまり、八戸飛行場が竣工した年に入隊している。
「教育隊では半年間教育を受けて、それまでは志願式の幹部候補生有資格者だったのが、開戦したからか、全員幹部候補生の有資格者となったんだね。卒業前に甲種と乙種の幹部候補生試験があったんだけど、甲種は将校、乙種は下士官止まりだった。試験前日に熱が出て寝込んでしまったが、頑張って行って甲種を受けきた」
将校:少尉以上の武官。
下士官:曹長・軍曹・伍長。
どちらもいわゆる兵隊さんではなく、会社組織で言えば管理監督職にあたる。
「口頭試問の時に身上書をチラリと見たら、下士適と書いてあったのでダメだと思ったね。俺は下士官が適当という事だ。試験官は大佐だったが、落ちたらどうする?と聞いてきたので、別にどうもしないと答えたんだ。どうせダメだと思ったからね。そしたらどういう具合か受かったんだね。全体の3番目の成績だった」
「甲種幹部候補生一個中隊は福生の陸軍航空整備学校で8か月間教育を受けたんだ」
陸軍航空整備学校:1938年(昭和13年)7月1日発足。16年12月に福生航空整備学校新築。
「演習の後に100km行軍などをやったなぁ。青梅街道を何回も駆け足で走ったよ。一週間の演習があったんだが、それが終わった後、座間の航空士官学校生と会食をしたね」
座間の航空士官学校生:陸軍航空士官学校は入間にあったので入間の誤りか、もしくは座間にあったのは陸軍士官学校なので、陸軍士官学校の誤りかと思われます。
「忘れもしない1942年4月18日、週番指令、週番士官の前で見慣れない飛行機が飛んでったんだ。飛行機が好きな奴が多いから、そのうちの一人が、本で見たノースアメリカンだって言い出したんだな。あれが東京初空襲のB-25だったんだねぇ」
1942年4月18日:本土初空襲の日。アメリカ軍が日本を空襲するならば、航空母艦で近づいて飛行機を発進させるしかないが、飛行機の航続距離は短いのでそれは無いだろうと思っていたところ、航続距離の長い陸上用の爆撃機を積んで、帰艦せずにそのまま中国大陸へ退避した。
隊長の名前をとってドゥーリットル爆撃隊と呼ばれる。
B-25:ノース・アメリカン B-25 ミッチェル爆撃機
「俺は学校では対空射撃部隊にいたから、空襲だってんで駆け足で座間から福生まで5時間半で帰ったよ。3人がぶっ倒れたよ」
座間から福生まで:約42km。ほぼフルマラソンですね。
その3へつづく
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