伊達騒動と樅の木は残った その2
3.奥山大学の失脚と原田甲斐の登用
さて、ここにきてそれまで藩の政務を取り仕切っていた家老の奥山大学と茂庭定元(もにわさだもと)の関係が険悪になりました。
大学は、先代の綱宗が放蕩三昧になったのは定元が仕向けたのだと、宗勝や宗良に告げ口します。
なるほど、江戸にいながら綱宗を止める事ができなかったのは定元の責任でもあるという事になり、定元は辞任に追い込まれます。
そんな時に、新しく家老に登用されたのが原田甲斐宗輔(はらだかいむねすけ)でした。
家老と後見人の関係ですが、政務の中心を担うのが家老たちで、色々な方針を決めます。国会のようなものですね。そして最終的に決裁権を持っているのは殿様ですが、二歳児の殿様には物事の判断ができませんので、代わって決済するのが後見人です。
殿様が自分色々判断できる歳になったら、後見人はその職を外れる事になります。
この仕組みであれば、問題無く進んでいきそうな気がするのですが・・・
定元を追った大学は我が物顔に振る舞うようになり、家中からは不満の声が上がるようになりました。やがて宗勝と宗良、両後見人とも対立するようになり、定元の後を追うように、1663年には奥山大学も辞任に追い込まれます。
4.勢力を増す宗勝
大学が追われた翌年、宗勝の子である宗興(むねおき)が、幕府老中酒井忠清(さかいただきよ)の養女と結婚します。酒井忠清は後に大老にまでなる人で、下馬将軍と呼ばれた程の権勢を誇った人です。
宗勝は政宗の実子で、二代忠宗の弟という事は前にも書きましたが、ここにきて幕府の中枢にいる老中と親戚関係になりました。
殿様はまだ二歳。家中では宗勝が事実上の藩主のような立場になりました。また、誰も意見などできないぐらい勢力をつける事になったのです。
この宗勝の意を受けて、実行部隊として動いたのが原田甲斐でした。宗勝は依怙贔屓で人事を決め、目付衆という秘密警察的な組織に権力を持たせ、独裁政治を始めます。
それを諫めようとした里見重勝(さとみしげかつ)は、跡継ぎを認められず家は断絶してしまいます。
また、こうなったら宗勝を討つしかないと謀った伊東七十郎(いとうしちじゅうろう)は、計画が漏れてしまい処刑されてしまいます。一族も重い処罰を受けました。
この伊東七十郎は、ひとかどの人物であったようで、江戸では処刑された事が評判となり、宗勝に対する風向きが変わり始めます。
でも誰も面と向かって文句も言えなければ、立ち向かう事もできません。悪は滅びるのでしょうか。 つづく
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