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日本と土耳古 その1(全5話)
エルトゥールル号の遭難
「ドンドンドン!」台風の風が吹く樫野埼灯台の官舎の扉を激しく叩く者がありました。
灯台守が起き出し何事かと扉を開けると、大島村樫野の高野友吉と全身びしょ濡れの異人が数名立っていました。
「船が難破したらしい、俺は村人を呼んでくるから異人の面倒をみてやってくれ」そう言うと友吉は急を知らせる為、集落まで走って行きました。
灯台守は火を起こし、異人たちに火に当たるよう促しました。異人たちは寒さのせいかそれとも恐怖のせいか震えてましたが、火に当たり人心地着いたようでした。
一体彼らは何者なのか、言葉が通じないためわかりません。そこで灯台守は万国信号旗表を見せました。
異人たちはオスマン帝国の国旗を指差し、続いて遭難信号の旗を指差しました。
それを見た灯台守は「エルトグロール号(当時の読み方)かっ!」と叫びました。数日前にエルトゥールル号の記事を新聞で読んでいたのです。
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***
1890年9月16日の深夜、台風で荒れる和歌山県紀伊大島の船甲羅という岩場で、一隻の船が遭難しました。
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600人の乗組員のほとんどは亡くなりましたが、何名かは大波に打ち上げられるようにして海岸にたどり着きました。岸に流れ着いた乗組員たちは、暗闇の断崖をよじ登りはじめました。
やがて夜も明けて、辺りは薄明るくなってきた頃、やっとのことで崖を登りきる事ができました。
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そこで嵐の翌朝に岸に打ち上げられている海藻などを拾いに来た村人、高野友吉と遭遇します。
突然全身ずぶ濡れで破れた服をまとった異国の大男が現れ、友吉は異国の鬼が現れたと思いました。また船員も日に焼けて鉈を握った若者を見て、悲鳴を上げました。
言葉は通じませんが、恐ろしさと寒さで震えて何かを訴えている異人を見て、友吉はただ事ではないと思いました。やがて異人は友吉を促し、崖の端から海を指さしました。
それを見た友吉は驚きの声を上げました。
海岸には大勢の人間が打ち上げられ、辺りには木材が大量に浮かんでいました。船が難破したと悟った友吉は、異人たちを近くの灯台に連れて行き、灯台守のいる官舎の扉を叩いて灯台守を起こし、後を託したのでした。
救助作業
友吉から連絡を受けた樫野区長の斎藤半右衛門は、樫野の人々を総動員して救助活動を行いました。
崖の下や海にいる人たちを灯台のある場所まで上げる為、村人たちは遭難者を背負い紐で結びました。そして崖から垂らした縄に掴まり、上にいる者たちが引っ張り上げ、下にいる者たちは尻を押し上げました。岩場に取り残されている遭難者たちも村人は舟を出して助け上げ、同じように崖の上に引っ張り上げました。
こうして救助した人数は69名にのぼりました。
救助された遭難者たちは戸板に乗せられて、お寺や学校へ運び込まれまれ、駆けつけた医者の診察を受け、手当てを受けました。
わずか60戸の樫野地区に69名もの遭難者が押し寄せましたが、樫野地区は貧しいうえに台風が近づいてからというもの、漁に出る事ができなかったため、村の食糧は乏しくなっていました。
しかしそんな中でも、普段自分たちが口にしない白米を焚いて提供しました。また、村では一戸につき4,5羽の鶏を飼っていましたが、これは食用ではなく卵を獲るためと、正月に1羽だけ潰して食べる為に飼っているものでした。これを潰して、西洋風に調理して提供し喜ばれました。
当時の村の主食はサツマイモでしたが、これは11月が収穫期で、保存してある芋も尽きかけていたので、まだ収穫には早い畑の芋を掘り出して、ふかして出したところ大変喜ばれました。
着衣はほとんどが破れたりしていたため、村人の浴衣を与えましたが、体格が異なるため、みな膝ぐらいまでの丈で、ツンツルテンの状態でした。
村人たちは荒れた海に危険を顧みず舟を出し、捜索と救助を続け、捜索は10月6日まで行われました。9月の事で遺体の腐乱は激しいものでしたが、村人たちは遺体を一体一体丁寧に扱い収容を続けました。
艦長のアリー・ベイはじめ200名以上の遺体を収容しましたが、全権大使オスマン・パシャを含め300名以上は発見されませんでした。こうして死者、行方不明者は581名を数えたのでした。
その2につづく