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「きく」ことについて考える

柔らかな雰囲気を醸し出す方に出会った。
その人は小さな声で、淀みながら話す。
だから耳をすませる。
小さな声に、強い思いや感情がのっていることが分かると、私はどこか心強いと思える。


「きく」 には種類があるような

① 聞き手側に意図があり、そのanswer をきいている
② きくということが目的であり、ただ、語り手の語りをきいている

①の場合、振り落とされるものが大半になる可能性が高い。振り落とされるという受動態ではなく、(無意識のうちに)振り落としているという、能動的な表現が正しいかもしれない。

一方、②の場合、振り落とすものはない。語り全てをとにかくきいている。しかし、振り落としはないが、何も残らない可能性は高い。

英語で表現すると、ask、hearingと言葉が異なるため考えやすいが、日本語、特に日常会話の中においては「きく」という同じ言葉を使うため、分かりづらかったのかもしれないと気がついた。

誰かの語りに耳を傾け、「きく」ということをするとき、その行為だけをみれば、両者とも同じであるが、聞き手の頭の中では異なる作業がなされている。
①では自身の問いや疑問の答えとなりえるものの有無を判断し、答え合わせ行ったのち、そのanswerに基づいて、現象や物事への自らの解釈を再構築する。
ここで自らの解釈を太字にしたのは、この過程において、きく行為以上に、自らの思考に集中をしている時間が長い、ということがポイントになってくると考えたからだ。

一方、②は大袈裟にいえば、語りの内容はどうでもいい。どうでもいいというか、覚えていなくてもいいし、その内容に関して自身の思考を巡らせる必要もあまりない。ただ、「きいている」という態度を崩してはいけない。そう考える、解釈に集中していることとは異なる形、この場合は自らの傾聴態度に集中する必要性が出てくると考えられる。

いずれにせよ、ここから私がわかったことは、「きく」中で、自らへの視線が外れた、相手の語りに飲み込まれたとき、初めて私は語り手の話を「きく」ことができているといえるのではないかということだ。

実は、「きく」ということができている、そう思えることはそもそも自己認識できるものではなく、他者からのフィードバックにおいてのみ可能であるのかもしれない。

私の中での「きく」はそういうものであると言語化できた。

では、その「きく」がなされている場面はどんな場面だろうか。
私が真っ先に思いついたのは対話の場面である。

「きく」が生まれるところ

構造や、体制に対しての怒りや愚痴ではなく、そもそもそれって?という、より地面に近い場所にある問いについて話をしているとき、振り返ると「きく」をしていたのではないか思える場面が多い。
(と、ここまで書いて振り返ることができている時点でもしや、私の思うきくではなかった説が浮上しているが一旦、目を瞑る)

不動になり、周囲の音も聞こえなくなり、ただひたすら、カランカランと、ハムスターが車輪を回すように思考を巡らせている。
相手の言葉ひとつ、相手の考えひとつも取りこぼさぬように、それが私の暗澹とした問いに懐中電灯を渡してくれるものになりえるかもしれない。私の哲学をより濃密なものにしてくれるかもしれない。そう思っているかもしれない。

「きく」の居どころ

結局、「きく」はどういうものなのだろう。
聞き手が何かしら意図をもって行う行為なのか
そのものが目的となる行為であるのか
自覚できない、自己意識の外に存在しえるものなのか

どれもそうだし、どれも違うかもしれない。

「きく」の出発点も気になる。
「話をきくぞ」と意気込んでいるときの「きく」は聞き手が出発点といえそうだが、話し手がおらず、話をしなければ、「きく」はそもそも行為として成立しない。そうなれば、話し手が出発点ともいえそうだ。
実際、話し手の話に引き込まれ、自己認識の外に「きく」が存在しうると考えると、この話し手が「きく」の生みの親といえないこともなさそうである。

「きく」という行為そのものについて問うとき、だれの持ちものであるか、もう少し考えてみたい。

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