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メルヒェン日記23「なめらかさ」
メルヒェンな人間のひとりごとです。
昨日のやつ↓
休日は写真がたくさん撮れる。
最近の考えごとシリーズのおさらい
・納得して生きるために、自分の意見を持とう
・面倒なことを避けて生きたい
・興味は面倒を中和する
歩くのも、息を吸って吐くのも、食事をするのも、料理をするのも、働くのも、遊ぶのも、分解すればすべて何かの「活動」であり、面倒で疲れる活動と、そうでない活動がある。
何が疲れない活動なのかは、それが得意かどうか、慣れているかどうか、興味があるかどうかに左右されるし、そのときの気分や体調でも変わる。
水が低きに流れるように、そのとき流れたい方向に流れていけたら、それほどいいことはない。
たくさん流れた方向へは、そのぶん土が深く掘られ、そっちのほうへ、より流れやすくなる。
どの方向へ自分を傾けるのがよいのか。勝手に傾いてしまう方向がよいのか。そうでないときもあるのか。
すべては何かしらの活動なので、分解すれば小さな動作であり、それらがセットになってひとつの活動になっている。ただ動き、何かを動かしているだけ。そこへ乗せられた感情だけが、その動作を好んだり嫌ったりするのだろうか。
なめらかな動作と、そうでない動作があるような気がする。摩擦係数の低い動作、高い動作。
なめらかでない、ゴリゴリとした摩擦の多い動作を、私は「面倒」と言っているのかもしれない。
デコボコが多ければ摩擦するとも限らない。出っ張りと凹みが噛み合えば、歯車のようになめらかに動いたりもするだろう。
自分の凹凸、環境や他者の凹凸。「彼を知り、己を知る」のが大事って、昔のえらい人も言ってたもんなあ。
私が、なめらかだと自分で思うときは、
・感覚的なことを言葉で端的に表すことができ、それがおもしろみのあるものになったとき
・いくつかの要素から、因果関係やストーリーを想像によって結びつけて組み立てているとき
・それらが人に伝わったとき
こんな感じのことが思い当たる。2番目のやつはなめらかすぎて自分でも気づかないうちにやっている。それがマイナスに作用することもあって、「嫌な想像」を勝手にしてしまうことがある。最近はそれに気づいて修正することができるようになってきた。
これらの動作は、刺激の少ない、静かで落ち着いた環境だと、よりなめらかになる。
しかし、現状あんまりこういうことをやる機会はない。どこにあるだろう。どうすれば作れるだろう。
逆になめらかでないのは、
・瞬発力をつかって臨機応変にスピーディーに何かに対応する
・腕力、筋力をつかって大きいものや重いものをどうこうする
・厳密さや正確性を問われること
こういうことは、なるべく避けたほうが身のためかもしれない。
今日はなんか、まったりとしている。続きを考えるのは、明日に回そう。