オノマサヒロの育て方(後編)〜無条件の愛とは
(前編まとめ)両親へのインタビューを通して僕は自分がどう育てられたかを探った。未就学の頃は興味を持ったことを好きにやり、思ったことを積極的に喋るように育てられた。そして宇宙に興味を持つようになった。しかし小学校ではそれは必ずしも快く受け入れられなかった。
楽しくなかった小学校 楽しかった進学塾
僕が通ったのは地元のごく普通の区立小学校だった。いつも授業中に率先して手を挙げる子だったのだが、他の子の発言機会を奪うという理由で、僕だけ授業中に手を挙げないように先生に指導された。勉強ができても褒められた覚えはなく、私語、礼儀、行儀、忘れ物といったつまらないことで体罰を受けた。科学や宇宙への興味を共有する友達もいなかった。
母はこう言う。
「ヒロは小学校で楽しくなさそうだったね。授業参観に行ったら、ヒロが喋りたいのに我慢しているのが分かった。それで日能研に行かせてみようと思ったのよ。」
進学塾の日能研に通い始めたのは4年生の頃である。それ以前は、塾も公文もソロバンも、勉強系の習い事は一切したことがなかった。
「いい中学に入れようとかは全然思ってなかったんだけどね。勉強は大変かなと思ったけど『小学校よりも気の合う友達ができるかもしれないから、試しに行かせてみよう』って。そしたらヒロが『楽しい』って言ったのよ」
僕にとっては小学校より塾の方がはるかに楽しかった。勉強ができると先生は素直に褒めてくれた。そして何より、電車や科学のことを話せる友達がいた。
一方で、全ての子供にとって日能研のような進学塾が楽しい場所であるとは、僕は思わない。むしろ苦痛に思っている子たちの方が多かろう。他の子も通っているからというだけの理由で安易に行かせる場所ではない。子ども自身が楽しいと思わない限り強要するべきではないと僕は思う。
また、学習塾は親の恐怖心につけ込んで商売をしている面が少なからずあるように思う。「行かなきゃ他の子より遅れちゃいますよ」は「信じなければ地獄に落ちますよ」と大差ない。それに乗せられてはいけない。親が見るべきは、他人の子がどうしているかではなく、自分の子がどうか、だ。
僕に限っていえば、日能研に通い出したことが人生最大の転機の一つだったかもしれない。なぜなら小学校では決して与えてもらえなかった自己肯定感を、はじめて得ることができたからだ。母はこう続けた。
「でも日能研に行っても、勉強をしろとはあんまり言わなかったよねえ」
僕は勉強が楽しかった。そんな子どもがいるのかと疑うかもしれないが、本心だ。頑張って良い点を取れば日能研の先生や友人が素直に評価してくれたからだ。もちろん手を挙げれば叱られるどころか褒められた。それが僕の承認欲求の満たし方だったのだ。
もちろん親も良い成績を取ったら褒めてくれた。一方で、成績が悪くても怒られたことはなかった。他の子と比較されることも決してなかった。
教育方針とは、何を「する」かだけではない。何を「しない」かも、それと同じくらい大事なのだと思う。
子に託す理想は?
「どんな子に育てようとか、そういう方針はあった?」
そう聞くと、父と母は苦笑した。
「開成に合格した時に、日能研の広報みたいな人に親子でインタビューされて『その後は東大に行かせるつもりですか、どんな職業につかせるつもりですか』とか聞かれたんだけど『な〜んにも考えてませ〜ん、親がレールを敷くものじゃないので〜』とか答えた覚えがあるの。何になって欲しいとか全然考えなかったよ。興味を持つことに一生懸命になっていればそれでいいだろうと思ったねえ」
父が続けた。
「金沢のおじいちゃん(父方の祖父、土木工学の大学教授だった)が、お父さんに自分と同じ土木工学に行って欲しいって言ったんよ。お父さんはそれが嫌でね。それで大阪に出て行って、お母さんと出会ってヒロができたんだけども。親が自分の跡を継いで欲しいって強制するのは良くないって思ってね」
「何になれって言わないとか、一番になれって言わないとかは、私も暗黙のうちに同じ考えだったね」
なるほど。子どもに何を言うべきかと同じくらい、何を言わないべきかも大事なのかもしれない。
もう一つ、親が僕に絶対に言わなかったことがある。「○○くんがしているからヒロもしなさい」という具合に他の子と比較することだ。子どもはみんな違う。他の子にとって良いことが、自分の子にとっても良いとは限らない。
興味の原点
僕が物作りや宇宙を好きになったのは父の影響が大きい。父は手先が器用で、うちにあった犬小屋や棚はほとんど父の作ったものだった。父と一緒に秋葉原に部品を買いに行ってラジオやスピーカーを作ったりもした。
父は大学の頃、天文部だった。家には父が自作した大きなニュートン式望遠鏡があったのだが、僕が使いやすいようにと口径10 cmほどの屈折式望遠鏡を買ってくれた。自分の目で見た月のクレーターや土星の輪の美しさ。あれが僕の原点のひとつだ。
この話をしていると、父は思い出したようにこう言った。
「博士号の時も、技術士の時も、子どもに邪魔されながら勉強して取ったんや。」
父は修士卒だったが、僕が幼稚園の時に社会人ドクターを取った。その頃の父は毎週末、自宅で勉強をしたり論文を書いたりしていた。
母が懐かしそうに笑いながらこう続けた。
「でも、勉強中に子どもたちが邪魔しに行っても、『うるさいから来るな』とは絶対に言わなかったね」
父を邪魔した記憶は都合よく消えているが、彼が週末に家で勉強している姿は心に残っている。父が勉強をしていたから、僕も勉強をするものなのだと思った。宇宙も、物づくりも、アメリカ留学も、博士号も、思えばすべて父の影響かもしれない。
「だからねえ、高校生の頃は目を吊り上げてお父さんに反抗してたけど、やっぱりヒロはお父さんの全てを吸収して今になったのかなあと思うねえ」
無条件の愛
「ところで私って、なんだったんだろうな。何にもしてないな…。ご飯作って『お片付けしなさい』って言ってただけかな」
母は笑っていたが、少し寂しそうでもあった。
親に感謝を伝えるのはなんとも恥ずかしいことである。反抗期の頃は文句ばかり言っていたし、家出をしたこともある。自分が親になってはじめて、親がしてくれたことに素直に感謝できるようになった。それを今、母に伝えなければと思った。
「や、でもいくつか覚えてることがあるよ。」
小っ恥ずかしさを堪えて僕は切り出した。
「日能研にひとり嫌な先生がいたの覚えてる?」
「ああそうそう、理科の先生ね。」
彼は授業中、特定の生徒をターゲットにして笑い者にすることがあった。僕もターゲットにされた日があった。すると母が日能研に乗り込んでいって室長に抗議してくれた。
「先生は授業を盛り上げようとしてそういうことをやったらしいんだけど、私はすごく頭にきて、『息子が辛い思いをするなら辞めます』ってはっきり言ったんだよね」
辛い時に母が毅然と僕を守ってくれたという頼もしさ、そして温かさのようなものが、記憶に強く残っている。
もう一つ、僕には母との大事な記憶がある。5歳の時に首に神経鞘腫という腫瘍ができ、手術で摘出した。今でも僕の首には大きな手術痕が残っている。金沢の病院に入院していたのだが、母も病室の床に布団を敷いて一緒に寝泊りしてくれた。
手術の当日は朝から食事を取れず、朝食の代わりに「ボーロを20粒だけ食べていい」と言われた。ボーロとは、小指の先ほどの小さな焼き菓子の粒である。
「そしたらお母さんも一緒にボーロ20粒の朝ごはんで我慢してくれてさ。」
「まああれは、ヒロが生きるか死ぬかと思ったから、私も一生懸命だったねえ」
母の愛といえば、僕は20粒のボーロを一緒に食べた病院の朝を思い出す。
母の乳を吸っていた記憶なんてないし、抱っこしてもらった記憶もほとんど残っていない。母は何かにつけて厳しかったから、怒られた記憶の方が意識上には多く残っているかもしれない。
反抗期になってからは母とのコミュニケーションは減ったし喧嘩もした。実家を出てもう16年になる。けれども、幼少の頃に受け取った母の暖かさは、今でも心の深い部分に薄れずに残っている。
自分が親になり、来し方を振り返り、また我が娘の行く末を案じながら、思うことがある。親は子に何を教えるべきなのか。読み書きや計算も大事だ。努力や根性ももちろん大事だ。ルールやマナーも教えなければいけない。でも、親が子どもに教えるべき一番大切なことは、無条件に愛されていることだと思う。自分が愛されていることについて子どもにただの一点の疑いも持たせないことだと思う。
大人になり、世の中の風に晒されるようになって、辛いこと、寂しいこともたくさんあるし、自信をなくすこともある。それでも僕の心の中にはいつも母の温かさがある。心の中から僕は母に抱かれている。だから僕は頑張れる。また立ち上がれる。
愛とは、見つめることかもしれない。他の子ではなく、我が子だけを。全ての子は違う。イーロン・マスクの母親の教育法を用いてもあなたの子はイーロン・マスクにならない。もちろん僕の親がしたことを真似しても意味がない。世界でただ一人の我が子に何を与えるべきか。何をして、何をしないべきか。それは聖書にもインターネットにも子どもを東大に入れた母親の本にも書いていない。ヒントを得る唯一の方法は、我が子の心をまっすぐ見つめることだと思う。
子育てにおいては、何か「する」ことよりも「しない」ことの方がはるかに難しい。親の心は不安だらけだ。我が子が立派になるために何かをしなくては、といつも考えてしまう。ついつい口が過剰に出てしまう。僕も我慢できず怒りをミーちゃんにぶちまけた後で、自らの心の弱さを後悔することが度々ある。
大事なのは、親がリラックスをすることなのかな、と思う。世の中に完全な親なんていない。完全でなくてもいい。子どもが大人になるまでの残された短い時間、他の子ではなく自分の子だけをまっすぐ見つめ、無条件の愛を注いでミーちゃんとの時を楽しんでいけたらと思う。
小野雅裕
技術者・作家。NASAジェット推進研究所で火星ローバーの自律化などの研究開発を行う。作家としても活動。宇宙探査の過去・現在・未来を壮大なスケールで描いた『宇宙に命はあるのか』は5万部のベストセラーに。2014年には自身の留学体験を綴った『宇宙を目指して海を渡る』を出版。
ロサンゼルス在住。阪神ファン。ミーちゃんのパパ。好物はたくあんだったが、塩分を控えるために現在節制中
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?