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一生忘れない、8月22日
8月22日は、父の命日です。
25年前、1996年の今日、東京の小金井市にある桜町病院で逝きました。
これから楽しいこともたくさんあったろう、62歳という若さで亡くなった父。
せめてもの親孝行は、僕も妹も孫の顔を見せてあげることができたことでしょうか。
写真は、結婚してすぐのころの父と母。
どうやら、世間的には「かっこいい」と言われていたらしい父。
僕の学生時代、我が家に遊びに来た女の子たちは皆、
「ペペシのお父さん、かっこいい!」
「なんで似なかったの?🤣」
僕は、母似なんですよ😅
そんな父は、僕の尊敬する人物でもありました。
小学校の時、
「尊敬する人は誰ですか?」
という先生の質問に、
友人たちが、「長島選手」とか「病院の看護婦さん」とかって言っているのに、
僕が「お父さん」と答えたら、なぜか不思議そうに見られたのは、逆に僕の方が不思議でした。
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そんな父が侵された病気は、大腸がん。
56歳で発症し、手術。
今とは違いまだまだがんが不治の病と言われていた時代ですから、その時点で本人への告知はしませんでした。
手術は成功。
いったん寛解し、仕事へも復帰。
お酒は飲まない人でしたが、いったんやめていたタバコもまた吸いだし、がんだったと知らない本人、がんと知っていた家族にとって、ホントに当たり前の日常が戻った生活をしていました。
ところが、、、61歳の時に再発。
鼠径部になんかしこりがあるということで、病院へ行き検査をしてみると、すでにリンパから全身に転移していました。
私と母が検査結果を聞きに行った時の映像は、映画の一コマのように今でもはっきり覚えています。
「余命、半年です」
性格や考え方と言うより、人としての「性分」が僕と父は似ていると思っています。
やっぱり告知をしよう。
僕が決めて、母にそう告げました。
もちろん、父には僕から告知をしました。
「わかった」
一言、父はそう言っただけです。
その時点で、父がどう考えるかは僕にはわかってました。
諦めるというニュアンスとはちょっと違うのですが、今よりはるかに副作用の強いだろう抗がん剤治療を受けて延命をするぐらいなら、
自分の好きなことをしたり
好きなものを食べたり
行きたいところに行ったり
会いたい人に会ったり
自分が自分でいるままで過ごしたい
ジタバタあがくことがかっこ悪いとかということではないのですが、子育ても終わり、孫を抱くこともできた父は、納得して自分の運命を受け入れる覚悟ができたのだと思います。
その後父は、自分でホスピスを探し始めました。
幸いにして僕の小学校からの親友のつてもあり、桜町病院のホスピスにお世話になることができたのです。
まだできたばかりのホスピス病棟で、先生、看護婦さん(当時はまだ看護師とは呼ばれてません)たちに本当によくしていただき、家族一同、今でも心の底から感謝をしています。
蛇足ですが、ホントの意味で「白衣の天使」という言葉を実感できた場所でもありました。
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8月21日の昼頃から昏睡状態に陥った父は、結局22日の朝、
家族だけではなく、親族含めて15人もの身内に囲まれながら、永眠しました。
だんだんと呼吸が浅くなっていき、
最後の一息が止まった瞬間を忘れません。
覚悟はしていましたが、やはり涙が止まりません。
早すぎる父の死でしたが、僕には大きなものを残してくれました。
それは、仕事に対する使命感です。
その思いについては、こちらをご覧ください。
今読み返してみると、なんか下手くそな文章で恥ずかしいです💦
今もそんな変わりないか😅😱
✨✨✨✨✨✨✨✨✨✨✨✨✨✨✨✨✨✨✨
今日はこれから、母と妻と3人でお墓参りに行ってきます。
父が大好きだった、アンコもの。
今日は大福でも買っていこうかな😄
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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