幸せが見つからない理由
「幸せになりたい!」「充実した人生を送りたい!」
これは人類に普遍の願いであることは疑い得ないです。
しかし、けだし逆説的ではありますが、”幸せになりたい・どうやったら幸せになれるんだろう”の呪縛は、私たちを幸せから遠ざけてしまう気がします。
だったら、幸せにどうしたらなれるのか??結論から申し上げますと、
幸せについて考えない。
これだと私は思います(拍子抜けした方は申し訳ございません...)。
幸せになるために、幸せについて考えないことが必要であれば、この記事自体アカンやんということはとりあえず脇に置いていただければと思います。考えに考えた結果の考えないという結論なので。
この結論に至るプロセスをこれから述べていきます。そこで一つ大切な考え方を紹介します。
行為的連関のモード
突然の意味不明のワード。これは、田口茂著『現象学という思考』で登場する言葉です。
咀嚼すると、行為的連関のモードとは、私は他人と関わり合いのなかに生きているということ、このような意味かと。
このように書くと、何を当たり前のことを言ってるんやと思われる方が多いと思います。でも、幸せになりたいと考えている時まさにこの当たり前のことを忘れていると私は強調したいのです!
幸せになりたいの構造
この行為的連関のモードと対をなすのが、反省的思考モードです。かいつまんで説明すると、私の視点から物事を検討すること、ということになるでしょうか。
幸せについて考えている時、まさにこの反省的思考モードに陥っていると思うのです。私の殻の中に閉じこもって考えれば考えるほど、幸せは遠ざかります。人生の意味もほとんど同じです。何故なら、幸せは一人で実現するものではないからです。
今までの人生を振り返ると、充実してたなと思う瞬間は絶対に一人での経験ではないですよね。私は少なくともそうです。必ず誰かとその充実を分かち合っています。
本来分かち合って初めて実感される充実を、自分の人生のみを満たしてくれるような代物としての幸せに変換してしまうというのが、”幸せになりたいの構造”だと、私は考えます。
いつから他人と比べるようになった?
「幸せになりたい!」というこの感情の根底には、
私はあの人に比べて幸せではないからという比較の心理
があるように思われます。
この他者と自分との比較。そこには孤立した自己というイメージがあるのではないでしょうか。他人とは違う自分。オンリーワンの自分。これが知らず知らずのうちに私たちを追い込んでいきます。
自分らしさを追求するために他人と違う行為をしたがる自分。他人に羨ましいと思われるようなセルフイメージを半ば強迫的に作り出す(例えばインスタ映えなご飯を食べに行く)。自己と他者の対比を意識するあまり、あるべき自分を強迫的に求める。
ここに現代特有の生きにくさがあるような気がします。充実した自分、幸せな自分を演じることで気疲れする。生きることが他者との関わり合いであることを忘れさせる世界。現代とはあまりに個人を独立した存在と考えすぎな世界。
もっと純粋にみんなと一緒にいるという状況そのものを楽しむ、そんな世界に私は暮らしたいです。
わたしとあなたが同じ時を過ごして、あなたのあの反応に私は笑い、それに対してあなたは...(以下略、言語化してたらきりがない)
というような、他人との繰り返す行為の受け答え全体(関わり合い)を充実した時と純粋に(充実した時だったことを他者に示すための手段ではなく、それ自体を目的として)受け取る気概を大切にしたいと思います。
そして、そんなひと時は「幸せとは何か?」という考えが入り込む余地のないまさに幸せな瞬間なのです。