芸者との婚外子を認知に来た曾祖父
祖父が3年遅れで高校に入学し、成人して亡き芸者女戸主の家督相続をしてから高校を卒業し、満州に就職が決まります。
祖父の身元引受人は女中とその内縁の夫。
祖父の徴兵の日本軍の身元引受人も女中の兄が書かれています。
赤の他人なのに、です。
芸者だった亡き曾祖母の藝妓検番の高祖父はまだ生きていたのに、祖父の軍の身元引受人になりませんでした。
祖父が預かり先から脱走してから藝妓検番の高祖父とも疎遠になっていたようです。
満州に発つ前に、芸者を身請けした人事興信録記載実業家の旦那が祖父の居候先の女中宅に現れます。
紳士姿だったらしいです。
曾祖父は祖父に「満州へは行くな。認知してやるから大学に行きなさい。」と言います。
祖父は「なにを今更。今までの生活が苦労したんだ。」と曾祖父を突き返し、喧嘩別れになったそうです。
祖父は満州へ行き、夜間大学に通い、徴兵、終戦、シベリア抑留を経て帰国、1年入院して、女中宅に再び行きます。
祖父は「舞鶴港上陸時に誰も迎えにこんかった。」と晩年涙を流しながら話していました。
女中宅の近くに公務員募集の貼り紙があり、応募、試験合格、採用されます。
しかし祖父が公務員に採用された昭和24年頃はGHQ占領統治期間で、日本軍将校歴以上は全員公職追放で、補充兵の兵長止まりだった祖父が公職にたまたま就けただけでした。
曾祖父は代々実業家をしていた明治維新雄藩の県から離れ、雪深い東北に移住していました。
曾祖父の派手な芸者買いが世間にバレて株式を芸者遊びに使い株式会社に背任行為をしたからとがめられ地元で働き辛くなったのでしょうか。