がん治療のための飲み薬が手に入らなかったとき、プロの仕事に助けられた話
妻に見つかったがんの治療を、多くの人たちが支えてくれている。
主治医や看護師さんをはじめとした病院の方々はもちろん、――ほかにも、本当にたくさんの人たちが支えてくれている。
まずは、小学生になったばかりの息子のコトくん。
先日、こちらのnoteでも書いたが、副作用の脱毛に悩む妻に”ぎゅーっ”と抱きついて「ママ、かわいい」と、二カッと笑いかけてくれる。
これが、妻にとってどれだけ救いになっていることか。
そして、僕のXやnoteを読んでくれている読者の方。
特に、記事を購入してくれる方や、さらには追加でサポートを贈ってくださる方もいらっしゃって、どれだけ感謝の言葉を重ねても足りないくらい、家族みんなが助かっている。
あとは、在宅勤務中心・週休三日に変えた僕の仕事をカバーしてくれる同僚たち。妻のヘアケアを担当してくれる美容師さんたち。息子の学校や学童の先生たち。
――挙げていけばキリがないくらい、たくさんの人たちに、僕らは支えてもらっている。
今日は、そんな中でも、「薬剤師さん」に助けてもらった話をしようと思う。
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週に一度、抗がん剤を投与する日のこと
毎週、妻はがんの治療のために、大きな病院に通っている。
朝イチに採血をはじめとした検査を行い、午前の終わりに主治医の診察を受けたあとは、午後に化学療法室で三時間ほど、点滴で抗がん剤の投与を受ける。
これらを終えて病院をあとにするのは、夕方の時間帯だ。
そしてこの治療は、一日で終わるわけではない。
抗がん剤は、その名のとおり、がん細胞をやっつけるための薬だ。
がん細胞をやっつけるための薬を、点滴でゆっくりと、全身にくまなく流すことで、がんを小さくしていく訳だ。
ただ残念なことに、この薬は、がん細胞だけでなく正常な細胞も攻撃してしまう。
いつかもっと医療が進歩したならば、がん細胞だけを正確に狙い撃つような”副作用がない魔法の薬”が開発されるかも知れないが、残念ながら現代の医学では、この副作用は受け入れるしかないそうだ。
結果的に、妻の治療の開始から二ヶ月ほどが経つと、副作用は脱毛だけではなく、全身の倦怠感や、味覚障害、手足のしびれなども生じていた。
特に倦怠感については、抗がん剤の投与が終わったあとも――翌日、翌々日まで、続くのだ。
当然、日常生活にだって支障がでる。
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付き添うことしかできない僕のこと
16週間にもおよぶ、抗がん剤の治療。
妻が一生懸命に闘っている一方で、僕にできることは、本当に限られていた。
妻の通院に荷物係として付き添い、一緒に主治医の先生の話を聞く。
抗がん剤の投与が終わると、麻酔や薬に入っているアルコールでフラフラの妻の代わりに処方箋を受け取り、精算を済ませる。
せいぜい、このくらいだ。
ただ、この治療では毎週、二万円を超える支払いをすることになるのだが、これに関しては妻に付き添うようにしていてよかったと思う。
僕が支払い、領収書さえ受け取ってしまえば、少なくとも具体的な金額が妻の目に触れることはない。
病気と闘う妻に、お金の心配までさせるのは、ちょっと心苦しい。
この日も僕が支払いを終え、領収書と処方箋を受け取り、待合室のベンチで待つ妻のもとへと向かった。
「さぁ、支払いも終わったし、帰ろう」
「うん、いつも付き添ってくれてありがとうね」
「いえいえ、むしろ付き添わせてくれてありがとうね」
「なにそれ」
「コトくんが小学校と学童にいっているから、こうしてゆっくり二人きりで過ごせるじゃん」
「あはは。でも通院は、”そういうの”じゃなくない?」
「そう? 僕は割とどこでも、君となら”そういうの”だけど」
「またぁ」
こつん、と妻が僕をひじで小突く。
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「このお薬は、在庫がありません」
いつもは、病院付近の薬局に処方箋を出し、そこで薬を受け取っている。
がんの治療を専門的に行うチームがいるような大病院のそばの薬局だけあって、薬の在庫は手厚い。
だが一方で、患者さんも多く、薬を受け取れるまでの待ち時間が長かった。
この日は、抗がん剤の副作用が強く出てしまったのか、妻の体調がいつもより悪そうだった。この状態の妻を、薬局のベンチで待たせたくないな、と思った。
僕は少し迷った末に、このまま妻と一緒に真っすぐ、家に帰ることにした。
家についたあとは、自転車で息子のコトくんを学童まで迎えにいく。
薬は、そのときに近所の薬局で受け取ればいいと思ったのだ。
だが、――結果的に、この判断が裏目にでた。
地下鉄に乗って家に帰り、まずは家に妻を送り届ける。
その後、自転車に乗って学童まで息子を迎えにいく途中で3軒の薬局に立ち寄った。
しかし、処方箋を見せた3軒から、
「このお薬は、在庫がないですね」と、言われてしまったのだ。
ただ、最後に立ち寄った3軒目の薬局の薬剤師さんだけは、こう続けた。
「もしかして、乳がんの治療中ですか?」と。
「あ、はい。実は、妻が抗がん剤の治療中でして。病院から、明日の午前中に必ずこの薬を飲むように言われてるんです」
「なるほど。たしかにこの薬は、明日の午前中に飲む必要がありますね」
薬剤師さんは、手元の端末を操作する。
「うちの系列の薬局で、XX駅にある店舗なら、21時まで開いていて、在庫もありそうですね」
指定されたのは、ここから地下鉄に乗って数駅ほどいった先の店舗だった。
腕時計をみると、すでに19時を回っている。21時まで、か。
このまま学童まで息子を迎えに行き、急いで家に帰り、そのまま駅に向かえば、たしかに薬の受け取りも不可能ではない。
ただその場合、息子のコトくんの晩御飯の支度や、お風呂の準備などができなくなってしまう。
もちろん、抗がん剤治療で体力を使い果たして家で眠っている妻を起こして、そうした家事まわりをお願いするという手もある。
ただ、それは避けたいところだった。
困った。
まだ小学生になって間もない息子の世話を優先すべきか。
それとも、妻の薬を取るか。
あるいは、いっそ息子を連れて地下鉄に乗り、XX駅の薬局に向かうか。
ふつうに考えれば、妻の薬を取るべきだろう。
だが、あとから「そういうときは、ただ私を起こせばいいだけでしょ」と、妻に静かに怒られる気もする。
うん、間違いない。うちの妻は、そういうタイプだ。
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「お薬を患者さんにお渡しするのが、薬剤師の仕事ですから」
「どうしました? XX駅の店舗ですが、21時までに行くようでしたら、薬を準備しておけるように処方箋のデータを送りますけど」
「あ、ええと。ちょっと待ってくださいね。実は、」
と、僕は自分の頭の中を整理するように、ゆっくりと事情を話す。
この薬は、抗がん剤の治療をしている妻が、明日の朝に飲む薬で。
僕はこのあと、まだ小さい息子を学童に迎えに行く必要があって。
夕食の準備なんかを考えると、XX駅に21時っていうのは、ちょっと悩ましくて。
「なるほど、それはたしかに、お客さまに取りにいってもらうのは、難しいかも知れませんね」
では、と薬剤師さんは大きく頷いた。
「薬をこっちに移動させることができないか、調べてみますね」
「え?」
「今の時間帯なら、まだうちの系列店舗のあいだで、問屋からの運搬トラックが走ってるはずなので、そこに薬を載せられないか、聞いてみます」
「そんなことができるんですか?」
「前例はないので、ダメもとですね。でも、聞いてみます。あとは、うちの系列じゃない近所の薬局になら、在庫があるかも知れませんね」
そういって、薬剤師さんはバックヤードのドアを開け、
「手が空いてる人、この薬、在庫がないか聞いてみて。そう、このあたりの薬局で。ほら、この前に作ったリストがあったでしょ? 上から順番に電話をかけてみて」
「あ、あの、そこまでしてもらうわけには」
だってそれじゃあ、仮に別のお店に薬があったとしても。
ここまで親切にしてくれた薬剤師さんがいるこの薬局に、一円もお代をお支払いできないことになる。
「いいんですよ。ほら、少し前に例の感染症がものすごく流行ったでしょ? あのとき、薬の在庫がどこも減っちゃって、患者さんに薬をお渡しできないことが増えちゃったんです。それ以来、こうやってご近所の薬局の間で、薬の在庫を融通しあうようなネットワークができまして」
「そう、なんですか」
「それに、――お薬を患者さんにお渡しするのが、薬剤師の仕事ですから。できることは、なんでもしないと」
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翌朝、無事に薬を飲めた妻に、僕が語ること
次の日の朝のことである。
「はい、お薬のんでね」と、僕は布団に横になっている妻に、水の入ったコップと薬を手渡す。
時計の針は、朝の9時半を指していた。
「ありがと。あ、この薬、ちゃんと手に入ったんだ。よかった」
「え?」
「ほら、いつも病院の近くの薬局でもらってたから。がん治療をやってるような大きな病院のそばならともかく、このあたりにふつうに置いてある薬か、ちょっと不安で」
「そこに関しては、君の読み通りだよ。ふつうには置いてなかった」
「え? でも、あるじゃん」
「いろんな人が、いろんな手を尽くしてくれた結果です」
「そうなの?」
「うん。たぶん僕らはこの先ずっと、近所のあの薬局を使い続けることになるよ。プロ意識のかたまりみたいな薬剤師さんと、他のスタッフのみなさんが、神対応をしてくれた」
「ふーん?」
と、妻は不思議そうな顔を浮かべた。
「やさしそうな人だったよ!」と、そう横から口をはさんだのは、一緒に薬局まで薬を取りに行ってくれた、息子のコトくんだ。
「コトがいうなら、きっとやさしい人なんだろうね」と妻は笑った。
「そう。実は――」と、僕は妻に語る。
なぜ、あの薬剤師さんは、こんなにも親身になって対応してくれたのか。
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結果的には、妻が必要としていた薬は近辺の薬局にもなく、薬剤師さんの最初の案のとおり、翌朝の一番早い配送便で、XX駅の店舗から僕の家の近所の店舗まで配送してもらうことになった。
朝の9時、薬局の開店と同時に、「おつかいー」と一緒についてきてくれた息子のコトと一緒に店内に入る。
すると、昨日対応してくれた薬剤師さんが、すぐに妻の薬を準備してくれた。
「本当に、ありがとうございました。とても親切にしていただいて、助かりました」と、僕は薬剤師さんに頭を下げた。
「いえいえ。……あの、差支えなければですが、奥様の治療は、何クール目ですか?」
「え? ああ、いまは10クール目になります」
「そうですか。じゃあ、副作用も強めに出る頃合いですね。本当に、お大事になさってください」
おや? と僕は思った。
「がんの治療について、お詳しいんですね」
僕がそう言うと、薬剤師さんは、小さくうなずいた。
「実は、うちの母親が、奥様と同じがんの治療中でして。なんだか他人事には思えなかったんです」
「そうなんですか」
どおりで親身になって対応してくるわけだ、と僕は思った。
「じゃあ、薬剤師さんのお母さまも、くれぐれもお大事に、ですね」
僕が言うと、薬剤師さんは笑顔でこう応じてくれた。
「ありがとうございます。お互い、がんばって支えていきましょう。では、奥様も、どうぞお大事に」
「ええ」
そんな僕と薬剤師さんのやり取りをみていた息子のコトも、にこっと笑って言う。
「おだいじにー!」と。
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あとがき
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