模擬原爆と長崎ちゃんぽんから平和に思いを馳せるのです。
「模擬原爆」に関する舞台劇を見た。
模擬原爆という言葉は、もしかしたら一般的にはあまり馴染みがない言葉かもしれない。
模擬原爆とは、第2次世界大戦の終戦間際に広島および長﨑に落とされた原子爆弾を投下するための練習として、米軍が日本各地に落としたとされる通常の爆薬を搭載した爆弾のことを指す。
原子爆弾は通常の爆弾とは異なり、爆発直後に強力な放射線を放つため、原爆を投下した戦闘機は通常の爆弾を投下した戦闘機とは異なる軌道でその影響を回避する必要があったことから、特別な練習が必要だったのである。
私は恥ずかしながら、この舞台をきっかけに模擬原爆の存在を知った。
冷静に考えて、大変恐ろしい話だ。それは、原爆の投下を目的に、徹底的かつ計画的に殺人が行われているという事実がそこにあるからだ。
しかも、この模擬原爆に関しては、長崎に原爆が落とされた8月9日から、日本がポツダム宣言を受諾した8月14日の間も引き続き行われているという記録が残っている。これは、米軍側において、長崎に続く3発目の原爆を投下する計画があったことを示唆している。
こうした戦争に関する歴史を目の当たりにしたとき、私は圧倒されてしまうことがよくある。
なぜこんなことが起こってしまうのか。国際紛争があったならば、平和的な解決手段を取ることはできなかったのか。
そうした道を模索しようとしたとき、そこに立ちはだかっている圧倒的な壁のようなものを感じてしまって、無力感に苛まれることもある。
戦争のない世界は、実現可能なのだろうか。
舞台のラストでは、理想の社会像の例えとして、「長﨑ちゃんぽんのような世界」という表現が出てくる。
かつての長﨑にあった、異国文化が入り混じりつつも多様な文化を認め合うという文化を、長崎ちゃんぽんに使われる食材たち1つ1つがあって初めて料理が総体として作り上げられることに例えたものだ。
こうした世界を実現しようとしたとき、何が大事になるだろうか。
私の今のところの暫定解は、「社会の構成員である一人一人、全員が、他者を互いに承認する目線を持つこと」を大前提として、「各々が、自らのできる範囲で、可能な役割を果たすこと」と、「強くて優しいリーダーがいること」である。
互いへのリスペクトの気持ちと、それぞれが、それぞれの才能が活かせる場で精一杯頑張ることなのではないか、と思うのである。
ちょっと応援したいな、と思ってくださったそこのあなた。その気持ちを私に届けてくれませんか。応援メッセージを、コメントかサポートにぜひよろしくお願いします。 これからも、より精神的に豊かで幸福感のある社会の一助になれるように挑戦していきます。