日本の停滞の考察(政治・メディア・教育の観点から)
近頃日本オワコン論が流行っているが、その原因は「多くの組織が部分最適を目指している」ことにあると考えたからまとめてみる。特に政治とメディアと教育。
1.政治
政治家にとっての部分最適は、選挙に確実に当選し、自党の議席をより多く確保し、より多くの利権を確保すること。
例えば岸田総理は「改革」ではなく「分配」を掲げて選挙に勝利したが、「改革」を掲げないことによって失う議席(自民→維新への流出)よりも、「分配」を掲げることによって得られる議席(立憲・国民→自民への流入)の方が多いと考えれば、日本にとって最適かは別として、自民党にとっては最適な選択となる。
同じように、政策として長期的な課題に取り組むよりも目先の個人的な利益を求める有権者が多いのであれば、取り組むべき課題に取り組まず、目先の利益を与えることが最適となる。(実際に、目先の利益の方を求める有権者が多いと考えている。民主主義的には、民意を反映しているという意味で政治家の行動は正当化されるのか、、)
そうやって喫緊の課題に取り組まず、当選や議席確保のために有権者のご機嫌取りばかりしている政治の先に、国の明るい未来があるはずがない。
2.メディア
メディアの大義と言えば権力を監視し、人々に正しい情報を提供するなどあるが、メディアだって会社である。会社には儲けが必要であり、従業員にとってはより高い給与が必要だ。その場合の部分最適は大義は関係なく「作成したコンテンツがより視聴数を上げ、より高い収益に繋がること」だ。
その場合、例えば選挙特番で求められることは「政党の主義主張を正確に幅広く届け、有権者に選択の材料を与えること」ではなく、「視聴数を稼げそうな一部の候補者、論点だけを取り上げる」「投票日より前の論点整理よりも、当選発表に力をいれる」などである。また、例えばコロナウイルスの報道でも求められることは「(経済的効果も含めて)いかに国全体にとって最適な報道をするか」ではなく、「いかにセンセーショナルに報じて、視聴者の気を惹きつけるか」である。
だからと言って、彼らに悪意があるとは思わない。その仕事の特殊性を無視すれば、いかに視聴数を稼げるか考えてコンテンツを製作するのは、いかに売れるかを考えて商品を作る、普通の会社員のマーケティング活動と変わらない。メディア人だって一般人と同じように大学を卒業し、たまたまメディアという業務を担う会社に入社しただけで、特別に国の将来を見通す能力を持っている訳でも、国の将来に責任を持つ義務を背負っている訳でもない。
会社として視聴数をKPIに掲げ、人事制度にも反映し、社員は達成のためにあの手この手を尽くす、当然の道理だ。
しかし、多くの人の情報源(一部の人にとってはほぼ唯一の情報源)となり、思考、行動に影響を与え、時に世論として政策の在り方まで変えてしまうメディアが、社会にとってより良い方向性ではなく、視聴数を稼ぐことを目指して作られているのであれば、その先に国の明るい未来があるはずがない。
3.教育
教育者の大義の一つとして「子どもにその先の人生を生きる力を付けさせる」ことがあり、多くの教育者もそのために尽力されていることと思う。ただ、教育に関わる者も人間であり、生活がある。
例えば、「社会の在り方が変わり、子どもに必要な能力も変わったため、ある科目は完全に廃止し、新しい科目を設置します」となった際に、廃止される科目の先生は、それが子どものためになるからと言って受け入れられるだろうか。また、パンデミック状況下でオンライン授業が必要になった段階で、いち早くオンライン授業の方法を検討し、実施に持ち込もうとした人がどれだけいただろうか。
結局教育者にとっての部分最適は「その制度下において子どものための授業を行う」ことであり、多忙な労働状況もありそれは仕方ないことである。ただ、それは私立学校では校長や理事長、自治体の首長、政府などが旗振り役となり教育の在り方を見直すことをしない限り、教育は今のやり方で続いて行き、どんどん時代遅れになっていくことを意味する。
4.まとめ
政治・メディア・教育について考えてきたが、中には本当に政治のあるべき姿、メディアのあるべき姿、教育のあるべき姿を考えている政治家、メディア人、教育者がいて、尽力されていることを知っている。ただ、悪貨は良貨を駆逐するという言葉がある通り、そのような人たちが部分最適を目指す人に打ち勝ち、出世することはかなり難しい。結果的に組織は部分最適を目指す人達によってまわされることになる。
第二次世界大戦後の日本では、政治・メディア・教育の在り方が1から見直され当時の最適と考えられる構造ができあがり、その構造上で約40年間成長を続けたが、もはや成長は止まり、社会情勢は変わり、各組織の部分最適が全体最適とずれるようになった。解決のためには多くの日本人により良い社会を目指す意識変革が必要だが、そんなことは当たり前に不可能だ。(そもそも「より良い社会」のコンセンサスがとれないし、人々の思想は自由である)
結果として政治は変わらず有権者のご機嫌取りを続け、メディアは視聴数を稼ぐために煽り続け、教育は旧来の形式を続けていく。改革が行われずに生産性が上がらないため平均的な給料は上がらず、人口減少で国内市場は縮小し、少子高齢化で社会保険料は上がり、増税され、国外からの投資は引き上げられ、円安で輸入品の価格が上がり、経済的に貧しい国が実現する。
それでも風光明媚で、多くの人が真面目で温厚で、水も豊かな日本の良さは変わらないと思う。貧しくなってもユニクロの安くて良い服、すき家の安くて美味しい牛丼で暮らしていけるし、Netflixに入っておけば何時間でも楽しめる。コミュニケーションが豊かな共同体を築けば貧しくても幸せな生活は実現できるだろう。
もし日本に住み続けて現在の生活水準を落としたくないのであれば、個人として稼げる力をつけるか、優れたリーダーの下で稼ぎ続けられる組織に身を置くしかないのでは。その人たちと、それができない人たちの格差はさらに開いていく。
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