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一日一俳句


最近、高校2年生に俳句の授業をしているからか、俳句への興味が湧いている。

17音という限られた文字数の中に無限の世界を広げることのできる俳句は、うーん、やっぱり、素晴らしい。小説であり、日記であり、写真であり、手紙である。

今日はその数ある俳句の中からいいなあと思うものを一つ選んで、好き勝手に感想を述べていきたい。

バスを待ち大路の春をうたがはず     
石田波郷

バスを待っていた時のできごと。ふと目に飛び込んできた風景に、「あ、春だ」と確信した。

教科書に載っているくらいなので、国語を勉強した人なら誰でも知っているであろうこの俳句。私はたまらなく好きである。

季節の変わり目を確信する瞬間が私にはあっただろうか。まずはそんな些細なところに目を向けられる純粋さを羨ましく思う。私が季節の変わり目を感じるとしたら、肌がいつもより荒れている時か次の季節の洋服が欲しくなる時くらいだ。なんの情緒もない。

しかし、春になると決まって気持ちが高揚している自分がいる。新しいことが一斉に押し寄せる季節だからだろう。「よし頑張ろう!」って思って、なんだか地に足がついていなくて、気持ちも軽くて明るい。この俳句が好きなのは、そんな私と重なるからだ。

これから俳句を教えてもらおうと上京してきた少年は、汽車や馬車が主流だった当時、モダンの象徴であったバスを待つ。「よし頑張ろう!」と思っているのだ。だからこそ春に気づけた。


この句を読んで思い描く景色は、風に揺れる桜と、自転車で目の前を通り過ぎる青年と、コートを脱いだセーラー服の女子高生。それとは対照的に、厚手のニットを着て、両手に大きな荷物を抱えた自分。世間の中で唯一、春の到来に気づいていなかった自分だ。最後はその自分自身にフォーカスする。一度自分を客観視してみたら、自分にもちゃんと春が来ていることを自覚できる。


「そうか、そうだった。春が来たんだった。」


季節が巡ってきたことへの喜びと、自分の未来への期待が、この俳句には詰まっている。




・・・それにしても、たいそうなタイトルをつけてしまった。
次は気が向いた時。毎日じゃない、毎日じゃない。

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