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これではあまりにもかわいそうだ

先日(2019年12月4日)、アフガニスタンで長年支援活動を続けてきた医師である中村哲氏が銃撃を受けて亡くなられた。

医師としてアフガニスタンに入り、その後は現地の人の生活向上の為に、力を注ぎ、活躍してきた。それなのに、悲しきかな銃撃にあい、命を奪われた。

アフガニスタンというと、私の娘が小学校卒業時にランドセルを「クラレ」を通じて寄付をし、アフガニスタンに渡った。余っていた文具も一緒に現地の子供たちが使えるようにと、一緒に送った。

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日本のランドセルは頑丈で、机の代わりになるほど重宝される。海外で教育を受ける機会がなく、学校にさえいけない子供は多い。日本国内だと売買されてしまうから、無償で誰かの役に立てて欲しいと、娘からの希望で、海外への寄付を選んだ。

アフガニスタンは、今でも悪しき風習が残っている国だ。ややこしい情勢の国へ異国の人である中村さんがやり遂げた功績は、現地そして在日のアフガニスタンの人々は、尊敬している。

しかし、銃撃を受けてなくなってからの対応は、アフガニスタンと日本では対応が違った。

アフガニスタンから日本へ帰る時に、アフガニスタンの人々や大統領は丁重に遺体を送り出したのに、日本に着いてから、出迎えたのは、外務省次官とと外務省関係者とご遺族。

首相であるあの人は来なかった。在日のアフガニスタンの人々は、「守れなくて申し訳ない」「ありがとう」と横断幕で中村さんのご遺体を迎えた。日本人が、困っている海外の人の為に、自分の命さえも犠牲にしたのに、日本の対応はなんと悲惨なものか?

自己責任論という言葉で出てきそうだが、それは違うと思う。

困っている人がいれば、国や宗教などが違っても助けてもいいのではないだろうか?その為に命を落としてしまったとしても、その功労を称えてもいいのではないか?

唯一救いとなったのは、皇后雅子様がご自身のお誕生日のコメントの中に、
事前に用意されていた原稿の中に、中村さんの死と痛ましく悲しく思う旨のコメントを述べられたことだ。

雅子様は元外務省におられた方だけれど、ご病気にもかかわらず、中村さんが異国の地で亡くなられたことについて、悲しまれている気持ちが伝わって、ご家族も救われたと思う。

こう考えていくと、日本って、どんどん「慈しみの心がなくなるのでは」と心配してしまう。

私も、忙しさにかまけて「慈しみの精神」が抜け落ちるかもしれない。いや時々ひどいことをしていると思う。だから、時々は自分の行いを振り返り、そして、反省し、人間らしくいきたいと思う。

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