昔のわたしに励まされた話
悪いことをしたわけではないけど、なんとなく大きな声でいえないこと。わたしは小さい大切な息子と2人で今、暮らしている。
そしてこれからも、暮らしていく道を選んだ。
泣きすぎて、大きな事を決めたことが怖かったのか、本当にこれでいいのかとか、先の不安や、全て何もかもなのか、決めた時は翌日顎が痛くなるほど泣いたけど、私と息子にとってそれが今の最善だという決断だった。
だけど。
そういう形を選んだことに、息子に対して申し訳なさがある。理由がなんであろうと。
だから、たとえずっと願っていた穏やかな暮らしが手に入っても、しあわせ、なんて言葉はわたしは口にしてはいけないような気がしていた。
神様でもないのに。勝手に色々決めてって。
子供と家を出た時、持てるものがかぎられたなかで必要だと思ったものは、母子手帳と、自分の仕事の服と道具、息子の園服とバッグ、2.3日分の息子の直近の服数枚と私の服数数枚。息子の好きなおもちゃ、ぬいぐるみ、小さい頃のアルバムと日記。ばっとつかんだのはお気に入りだった生まれた時からのおくるみ。
パッと見回した部屋には、息子が生まれた時からの日々の思い出が詰まっていて、そこを離れることに涙が溢れた。
わたしはものが多くて、思い出がだいじで捨てられないタイプで。
何もかも大事だと思ってた。
でも、何かしか持ち出せないとなった時、わたしに必要で、大事なものは小さい息子の忘れたくない思い出と、息子の大事なおもちゃと生活品、生きるための仕事用具だった。
そんな記憶も一年前で、今は、また、ふたりで前の家でおだやかな時の中で暮らし始めた。
引っ越した時トイレが殺風景だなと思い、飾りを何か飾りたいなと思いたち、そういうのをしまっていた箱があった事を思い出した。
生まれてから日ごとに成長する息子を追いかけながら、働きはじめて、家庭の複雑な出来事もあって。そんな日々の中で見ることのなかった箱。
子供は小さいうちはものを落としたり舐めたりするから、頭にもよぎらなかった箱。
そこには、わたしが社会人数年目の独身の頃、友達と海外の海に行った時に買ったものが入っていた。
ハワイで買った絵とサンディエゴで買った貝殻の置き物。
あの頃、わたしには無限の可能性があって、世界は広がってるって思ってた。
今は愛しい何よりも大切な息子と暮らせる日々があることに感謝していて、ありがたくて。でも息子にとっての幸せや、日々を考えすぎて、私が好きだったことや考え方を忘れてたことに気づいた。
同じような状況の友達に最近、わたしたちは自由だよ、と言われた。
責任を持てるのは自分の人生まで、この子はこの子の人生がある、と。
ハッとしてそうかぁ、、と思った一方でそれが少ししっくりこなくて、
だって息子がいるから、わたし一人の人生のように自由にやりたい場所、やりたいことして生きるとかそんな単純にできない、何が正解か分からないけど、息子にとって、ということもいつも考えて生きていたいと思ってるから、と。少なくとも、幼い息子のしばらくの人生はわたしの生き方に左右されるのだから、責任がある、と。
真面目すぎるわたしがいて。
そんなもくもくとした考えの中に箱の中のものたちは、昔のキラキラした心の私が、あの頃好きだったこと、もっと軽やかに人生を歩いてたことを思い出させてくれた。
もちろん、あの頃新入社員時代は、仕事が大変で苦しくて、同期と支え合い、一生懸命愚痴を言いながらも毎日頑張って、稼いだお金で長期休暇で海外に行っては全てを忘れ、自分らしい時間を過ごしてたわけで。
この絵も、新婚時代に、トイレの棚に飾って、見たりしていたわけで。
全て振り返ると色々あったけど、まだ30代前半だけど、まったく忘れていた私の心の一部を、奥から引っ張り出してきたような。そんな新鮮な気持ちになった。
まだまだ人生は長い。
あの頃思っていたように
海のように大きな夢を持って、ゆったりと歩んでいきたい。
そして息子の人生も息子らしく、幸せに歩んでほしい。
広い海が続くこの広い地球で。自分なりの幸せを、心に持って生きていけたら。
わたしも、息子も。