エッセイ「運動会の思い出など」
運動会について、あまり良い思い出が無いまま終わってしまった人生だった。
大学4年生となった今、俺はもう運動会を経験することは二度と無いのだと思う。大人も参加できる地区の運動会があるところはあるが、あれに参加してるのは子供か老人かのどちらかだった。世の成人男性は仕事の無い土日くらい運動せず休みたいだろう。また、退職して年金を貰う年齢になってまで、スプーンの上に乗ったピンポン玉を落とさないように走るのは御免だ。
幼稚園生の頃にも運動会があった。玉入れについてよく覚えている。年中だろうか?ちょうどお昼どきの時間帯の練習だったため、カゴに玉が入った子供から給食を食べに行くという先生からの指示が出た、一人またひとりと園児が校舎に戻り出した。最後まで残っていた玉入れセンス皆無の俺を含めた数名の園児は、涙目になりながらカゴに玉を投げていた。焦燥感と涙ぐんだ目のせいでカゴが揺れて見えて玉は外れる一方で、あの、二度と飯が食えないのではないかとさえ思えた、足元から脳天まで迫りくる焦燥感をたまに思い出すのである。
もう一つ。当時は北京オリンピックが話題だったため、親子障害物レースで園児に「オリンピックにまつわるコスプレ」を着せて走る、という特別種目が用意されていた。俺は柔道を習っていたため、オリンピックの柔道の種目にかこつけて道着を着て親子で走った。
俺と一緒のレーンで走った同級生は、頭が悪い貧乏な家の子供だったが、当時水泳で平泳ぎで金を2つ獲得した北島康介が空前のブームであったため、親が「北島康介」と言い張ってパンイチで走らせていた。幼稚園には水泳の授業が無かったため、水泳帽は被っておらず、パンツも寝間着のようなブリーフパンツだった。僕が齢6にして、経済格差を子供ながらに察した瞬間であった。今思うと、色んな家庭の親がコスプレの題材構想と製作に苦しんでいた中、裸一貫で走らせたその親が潔すぎて面白い。
小学校では、少子高齢化の煽りを受けて6年間を通じて学年で2組しかクラスが無かったため、紅組(1組)と白組(2組)に分かれて毎年の運動会をしていた。徒競走や学年種目の勝敗を受けて得点を計算、総得点が高い方を勝ちとする、誰もがイメージするベーシックな運動会だ。
俺は1年生の頃だけ1組で、2年生から6年生まではずっと2組だった。そして、俺の代の6年間の運動会で勝った組の遷移はこうである。
白組→紅組→紅組→紅組→白組→紅組
そう、俺は6年間で一度しか運動会に勝った経験が無い。
コインを6回投げて1度しか表が出ない確率は3/32、実に9.375%である。一度しか無い人生で、悪い方の約10%を引き当ててしまった。
まだ一度勝ててよかった。勝ててなかったら本当に運動会が大嫌いになっていたと思う。5年生の頃、初めて勝ったときは1年生からずっと同じクラスだったもう2人の同級生と肩を組んで喜んだのを覚えている。そう思うと悪くない思い出かもしれないが……
俺は運動が苦手だったため、徒競走ではいつもビリだった。なるべく走る速さを先生が調整してくれるが、俺は学年で一番足が遅かったのでその配慮を意味をなさなかった。
3年生の頃、白組が敗北を喫し、運動会が終わって帰る支度をしていたとき、いつも帰っている友達を「一緒に帰ろう」と誘ったが、「1位になった奴としか帰りたくない」と体操着の腕に貼られた「賞」と書かれた赤いシールをひけらかしつつ、無下な言葉で断られた。彼はいつも頭が悪くて、着ている服が同じなので小馬鹿にされていたが、足だけは速い奴で、輝いていた自分に対して誇らしくなったのだろう。
あの時ほど、自分の腕に貼られた青いシールが悔しくて情けなかった瞬間は無い。
このときから、運動会は「将来になんの希望もない馬鹿な奴らが唯一輝ける年間行事」という印象を抱くようになった。同時に俺の運動嫌いも加速していく一方だった。
また、4年生の頃は熱が出て休んだ。復帰してから負けを知らされた。優しい女の子の同級生が、「ぺもくんがいたら勝てたかもしれないね」といつもの優しい節で声をかけてくれた。なワケねーだろ。
6年生、小学校最後の運動会は僅か3点差で負けた。結果発表のとき、1桁ずつ発表していく時に、紅組が198●点、白組が198●点と、最後に1桁目が残ったので大盛りあがりしたのを覚えている。頑張ったので悲しかったが、まあこんなもんか、と思ってみんなが敗北ムードで教室に戻ると、担任の先生が烈火の如くブチ切れていた。「3点の重みを知れ」「この中の1人が徒競走で1位なら結果が覆ってた」などなど……
教員間で賭博でもしてたのか?
中学校にも運動会はあった。中学校からは隣の校区の小学校とも合併し、3組に増えた。紅組、黄組、緑組に分かれた。小学校の頃ほど学年種目に面白みが無く、生徒会種目も凡庸でつまらなかった覚えがある。2回くらい勝っている気がする。もうそれさえも覚えていない。
徒競走では、1年生から180m、ほぼグラウンド一周分を走らされていた。小学六年生の時から約2倍に跳ね上がった距離は、当時の俺にとってはほぼ長距離走だった。
ペース配分をしくじった俺は後半はもうクタクタで、応援団長から叱咤激励を受けたのを覚えている。勿論全年通してビリ。
高校も運動会はあった。学校祭の体育の部という名目だった。
だが、驚くことに高校の運動会を1度しか経験したことがない。
2年生の年に大雨が降り中止に、3年生の年には例の流行り病のせいで中止になった。そう、俺の代は、アレのせいで高校最後の学校祭が中止になった最悪の代でもある。2002年生まれが不遇と言われる所以である。
高校の体育祭は、部活単位で行われたため紅組白組といった区切りは無かった。
部活対抗リレーでは、俺の学年が全員走るのが遅く、当時の3年生から、「えへっ!?フツー50m走って6秒台走るもんじゃないの!?」と、苦笑いで言われた。結局、3年生がフル出動で出てくれて、1年生はお役御免で椅子に座るのみだった。
棒倒しでは、全員が殺気立っており、普段は優しく接してくれる野球部の子が舌打ちしながら突撃してきて怖かった。
こうして、失意のままに俺の運動会は幕を閉じた。勿論、大学に運動会は無いためこれでおしまいである。
そう思っていた矢先、教育実習で運動会を見る機会が2度あった。
母校で、何年も前の俺が経験した運動会である。
どちらもええやんええやんで楽しかった。
(守秘義務があるので何も言えないよ!バイバ~イ!!!)
ガツーン
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