優生思想や進化論をぼんやり間違えない
科学は進歩している
太陽が東から出てきて、西に沈むのは、地球の周りを太陽が回っているからだと説明する人がいたら、苦笑いしてしまうだろう。
太陽の周りを地球が回っていて、その地球の上にいるからこそ、太陽が回っているように見えているだけ。神様が「光あれ」と言われたから、太陽が生まれたのではない。
日本では割り早く、小学校で習う科学の基本である。
そこで学ぶのは、地球の公転と自転だけではない。
論理的に説明できることが科学であるという、いわば「科学のあり方」そのものの概念である。
つまり科学的なことは、事実の積み重ねである。時に人間にとって非情に見えるようなことがあるような印象があるが、どこまでいっても、それは印象である。
科学的な知見に対して、どう理解するか、どう意味を考えるのかこそ、人間だけが持ち得る感情の問題である。
相模原で起こった障害者施設殺傷事件(https://ja.wikipedia.org/wiki/相模原障害者施設殺傷事件)に対して、少々大仰な議論を身構える人の見解を見た。
色々な見解があるようだが、少々錯綜した意見も見受けられたので、整理として、提言したい。
その前提として、キーワードが「科学は進歩している」である。
進化論の誤解
ダーウィンの進化論をビジネスシーンで引用したがる人がいるが、だいたい間違えている。大体が次のような表現を用いられる。
猿から進歩したのが人類で、道具を作ったり、言語を使うなど、武器を得て、繁栄を誇ったというのだ。だから、弊社の製品やサービスのように、新しい時代の武器やツールを持つことで、新しい時代を生き残り、未来に繁栄できるというようなもの。
しかし、この文章は、最初から最後まで間違えている。
そもそも猿の中でも努力したり、工夫したものが人類に進化したというストーリーは、進化論に一切書かれていない。
猿と同じ類人猿の中でも、木から降りる必要があったもの、降りざるを得なかった種族がいた。彼らの中で、石をぶつけて木ノ実を効率よく割るきっかけを得たものが、道具を使えた。
というように、個体や種族が努力した結果、進化できるのではない。
全て結果論なのが進化論の本質なのだ。
それも、現在の環境に適した者が生き残ったのではない。現在の環境に死ななかった者の末裔が現代の我々でしかないのだ。
だから個人の信念や情熱など、一切関係ない。ましてや二、三万年程度の文明など、自然の淘汰の中で短すぎて、進化のふるいにかけられたうちにすら入らない。
時々、猿から人類に進歩した証拠はない、というトンチンカンな主張をする人がいるが、これはダーウィンが生きていた当時から言われていた、似非科学そのもの。キリスト教
猿と人類は同じ祖先を持っているだけであって、ダーウィンの主張が、神が愛の対象として作ったという啓典の設定に反するからと作られた、ネガティブキャンペーンでしかなかったのだ。
わかりやすくいうと、父親が同じである兄弟という証明はすでにあるのに、兄から弟が生まれた証拠がないと主張するようなものである。あるわけない。最初から間違えているのだ。
では、なぜ進化論が誤解されたのか。
その経緯の延長に、優生思想が存在する。
そして優生思想こそ、科学の皮を被っただけの、限りない主観であり、妄想でしかないのだ。
優生信仰
ダーウィンの進化論が発表された1858 年は日本では井伊直弼が大老になり、日米通商修好条約を結んだ年である。
つまり産業革命を経て、欧米列強と呼ばれるヨーロッパ文明が、世界を植民地化しようとしていた時代である。
そうした時代だからこそ、進化論は早い段階で誤読されていた。
自然の淘汰によって、強者は生き残ることは必然だと理解されるようになった。弱者を搾取するなど、進化論にどこにも書かれていないのに。
いわば異人種に土地に奴隷を求めていったのと、基本的には変わりない考え方なのだが、それでも強者が弱者を支配するのは当然だと思われた。それが野蛮な、文明を持たない社会に、文明をもたらすことになることだからだと錯覚されたのだ。
当然、人種によって人類を分類し、優劣を設定することが、科学的と考えられた。
問題はそれを科学だと、「信じた」ことである。
科学は信じるものではなく、論理的に証明されることである。権威ある者が断言したかどうかではない。
しかし20世紀初頭の科学は「信仰される」ことで成り立ったといわざるを得ない。
そうした信仰に基づいた世界観の上で、優生思想が生まれる。
優秀な種族と、劣等な種族が分けられ、優秀な種族の支配を劣等な種族は受け入れないいけない。優秀な種族は劣等な種族を、管理、指導してやらないといけないと。
現在のように科学が進歩した社会では、優秀といえる種族など、存在せず、過去の飢餓から、かなり限られた世帯の末裔が世界に散らばっていったことが、遺伝子的に証明されている。
科学的に「人類みな兄弟」なのだ。
優秀な種族があってほしいというのは、市民革命以降も生き残っていた貴族階級の願望に等しく、劣等な種族を設定していること自体、奴隷制の延長でしかなかったのだ。
優生思想という表現を用いられることがいまだに多いが、思想史の面からいっても、到底「思想」と呼べるほどの内容は見られない。いわば、優秀な人種がいてほしいと願う、カルトといっていいだろう。
十九世紀から二十世紀に見られた、覇権主義(軍事力が強い国が弱い国を支配し、搾取していい)は、結局、こうした科学と名乗るのにおこがましい邪教に支えられた。
そして最終的に優生と名乗るカルトを生み出し、最終的にナチスのユダヤ人虐殺につながるのだ。
そのどれもが、非科学的であり、科学的な要素を用いた、現状追認の妄想でしかないのだ。
当時は科学だと信じられたが、現代では到底、科学と呼べない代物である。
当然、優生「思想」など、歴史上の表現でしかない。
人権道徳と関係なく、犯人と我々は違う
相模原障害者施設殺傷事件について、人権や道徳や、優しさの話を一切抜きにしてみよう。
意思疎通のできない障害者を殺害することで、経済的な負荷を軽減することができる。それを実現したのだから、総理大臣に表彰されるべきだと、犯人は主張していた。
まずい。完全に破綻している。
ハリウッド映画の特殊効果を手がける会社で、採用されたのは発達障害のハンデがある人だという。我々がうっかり見落としてしまうような、画面の矛盾を見つけ出し、それを修正できる。高い集中力をもつことが発達障害の人に見受けられるという。
日本でも保険会社で、自動車のドライブレコーダーを長時間閲覧し、事故を分析するのに、発達障害の人が採用された例も見たことがある。
意思疎通できない人がいたとしても、その人の能力を現代の我々が認識できていないだけだと考えられないだろうか。かつて覇権主義だった列強諸国が、アフリカやアジアに豊穣な文化があることを理解できなかったように、現代の我々がハンデとよび、タブーを感じていることが、実は錯覚でしかなかったと証明される可能性はあるのだ。
ましてや日本の負債を軽減するためというなら、もっと効率的な方法がある。
これだけ赤字だというのに、毎月百万円の給与を受け取って、議事堂でバッチをつけるだけでうたた寝している連中がたくさんいる。
障害者を二十人殺して、節約される金額と、国会議員が一人いなくなる金額を比較していなかったのだろうか。
国会議員を誰か殺害するのは物騒だとして、経済だけでいうなら、もっともっと削減できる。それを考えて、与野党の身近な議員に訴えるなど、どうして考えなかったのか。
到底、表彰されるほどの努力をしたとは思えない。
障害者施設で働いた経験が犯人にはあった。だが、それ以外の社会を知らないでいた。だから、問題が障害者を殺すべきか、否かという二元論になってしまったのではないか。
これだけ情報が氾濫しているのに、問題を矮小化し、様々な可能性を考えられるだけ、悩み抜かず、凶行に及んだのだ。
彼の公判に関する報道を見る限り、考えが多岐に及んでいたように思えない。
様々な可能性。様々な違う問題点。
それらをテレビやウェブに任せず、自分の心に刻み、悩むことに臆さない限り、我々はあの犯人とは毅然と決別できる。怖がる余地など全くない。
なぜなら、複雑な問題に対して、頭を使って問題を解決しようとしているのだから。
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