教育システムとドロップアウト児童

責任能力

ずっと昔。後輩の知り合いだったか、男の子が友達数人と三泊四日の旅行に行きたいと企画していた。
その企画を両親に反対されて、困惑していたので、どう思うか意見を求められた。彼は中学生だった。
「まずいと思う」
率直に、答えた。
なぜ、まずいのか。もしも誰かが財布をなくした時、もしもトラブルに巻き込まれた時、もしも、と考えた。その時、中学生だけの集まりでは事態を回避したり、解決に向けて動くことができないからだ。
そう説明すると、彼は素直に納得して、友人に説明すると返答してくれた。
今でも、それは痛感している。大人とは何か。体が大きいか、ではない。責任能力があるか、ないかである。

「バーカ」って言う方がバカなんです

大人の世界では、「バーカ」とは他人に対して発しない。
大人同士の喧嘩でも用いない言葉である。日常では絶対用いない。
なぜか。
それによって発生する、もっと馬鹿馬鹿しい事態に対して、責任を負わされる馬鹿馬鹿しさを理解できるからだ。
そしてそれを理解できないのは、予測能力が低い人=バカなのだ。
時々、TPOをわきまえず、なんでも素直に話すと自負するタレントをメディアがありがたがって登場させるが、薄ら寒さを感じる。
相手がどう思うか、斟酌せず、好きなことを好きなように発声できるのは、子供がすでにやっているからだ。
年齢を重ねただけの、ガキの寝言をどうしてありがたがるのだろうか。
自分らしさでもなんでもなく、ただ無神経な言動を、みんなが見たいとでも思っているのか?

教育問題などと、大それたものなど、実は存在しないのではないかと思っている。
文科省「円周率を3で教えてます」
親「ダメだろ」
文科省「いーよ、じゃあ、3.1419で教えるよ! あと、小学生のテストをもっともっと難解にしてやっからな! 文句ねぇだろが!」
実際、小学生の勉強内容はただただ難解になって、課題も増えていると聞いた。
それ以上に、不登校や引きこもりになる子供たちに関しては、何も解決策が生み出されていない。
待て。本当に問題を解決する能力が、我々大人にはあったのではないのか。一体、どうしてこんなこんがらがった話になってしまったのだ。

戦後自由主義の虚妄

終戦後、教育機関に対して見直しが図られた。
施設として授業が行えるか、というシステムを見直しが図られた。
その中に校庭があった。最低限、必要な校庭の面積が決められたが、どうやって決められたか。
何と、平均値である。
実際に戦後に存在した校庭の平均値で、「大体こんなもんじゃね?」レベルで決められたのだ。
それから70年経って、どうなったか?
「昔からやってっから、こんなもんじゃね?」

と決められているのだ。
残念なことに、我が国がポツダム宣言を受諾して、全てが自由に刷新されたというのは嘘。
教育に関しては、戦前の方が自由に行われていたのだ。
逆に、戦後は皇民化教育を恐るあまり、管理体制を万全にするため、自由に教育ができなくなった。抜け道として、塾が学習を支えているが、それも公的機関からは一切支援を得ていない。どれだけ素晴らしい授業をしようとも、それはあくまで、塾という法人格が有償で行っているだけで、いかにすぐれていようが、国は一切認めない。
その国が、万全の管理ができているかというと、ゆとり教育から詰め込み教育への奔放な方針転換である。
「授業を受ける児童の人生など、糞食らえ」という基本方針がどこかで決まったのかも知れない。

政府ではなく、大人の責任とは

政府という圧政者がいて、国民を苦しめているという、まるで二十世紀の権力闘争史観はいい加減、食傷気味にならないか?
老人と子供たちを満足に食べさせたり、勉強させてあげられないような社会に、どうして納税してやる義理があるのかと考えみよう。
国会議員は我々の代理なのだが、連中が親の票田を後継する以外に、ろくに漢字も読めないような連中なら、別の仕事をしてもらうべきではないか。
責任能力のない人間を選んではならない。
有権者にして納税者の我々は、ずっと納税の義務を果たしてきたではないか。
自分の代わりに隣人と、未来をよりよくしてもらうために、金を出し合ってきたではないか。
それなのに、近所で元気だった子供が、行き場を失い、引きこもりになってしまうのか? 学校教育でドロップアウトしたら、引きこもりになるとは限らないが、その可能性を一切検証せず、方針だの理念だのと言っているのが、本当に責任ある態度だと思えるか?

不登校

学校に来なくなる生徒が、やはりクラスにいた。
友人関係や家庭環境など、色々な事情があった。
色々な事情はあるが、それが理由で踏み込まず、放置して逃げ出すのは大人ではない。
もし幼い子供が、通学路でもないところで、雨に濡れたままうずくまって泣いていたら、助けるのが当然だろう。それができないのなら、我々はもうゾウさんやおサルさんより劣った種族である。自由だの、平等だの、権利などという言葉を二度と使ってはならない。
不登校児童・生徒の問題があるとして、それを何を解決できないのだとしたら、無力感でバカバカしくなって当然だろう。
それをまだ未成年の当事者に、全て責任をかぶせるなんて、やはり正常な頭脳ではできないことだ。
いろんな事情がある中で、原因の一つに、授業内容や学校運営、教育の奔放な方向性なのだとしたら、それは見直さないといけない。
見直さず、一度決めたものを完遂するのだというのなら、そんな一億玉砕みたいな連中とは関わらないことだ。
不登校の児童がいても、当然だとどこかで思えてしまう。
満足に管理できていない組織が、方向性を一切検証せず、未来の有権者を縛り上げ、彼らの見識を狭めているのだとしたら、それこそ国賊ものではないか。


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