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5. 民主改革

1956年、中国はチベットの東部地域であるカムで、いわゆる 「民主改革」を導入し始めた。中国は共産主義イデオロギーを押しつけ、チベットの宗教や文化を破壊するように課すようになった。中国は大量逮捕とチベットの宗教指導者や他の著名な指導者の処刑を行った。
十七カ条協定の第四条では「チベットの現行の政治制度には、中央は変更を加えない(對於西藏的現行政治制度,中央不予變更)」と定められていたが、中国政府のいう「西蔵」にはアムドやカムの東部(中国政府は青海省や西康省蔵族自治区等を設置)は含まれていなかった。これらの地域では、1956年から「民主改革」(社会主義思想にもとづく領主や富裕層からの土地財産の没収と再分配)が着手される。寺院財産の没収が反攻の導火線となり、1956年から、アムドとカム東部の全域で大規模な蜂起が勃発するのである。
中国の当初の東チベット政策は、必ずしも暴政一方だったわけではない。当時東チベットでは性病が蔓延しており、1950年ごろにこの地を訪れた作家ジョージ・パターソン(スコットランド人の技師であり宣教師。中華人民共和国によるチベット侵攻の間に起きたチベット動乱に、軍医として、また外交上の代表者として働いた)によるとその罹患率は90%であった。人民解放軍は東チベットの住民に性病特効薬を始めとする多くの文明の物資を供給した。しかし、中国政府が取った政策は、結局は東チベットの民衆にとって植民地支配でしかなかった。
東チベットでは放牧が盛んであり、仕事柄銃を持つ住民が多かった。また、東チベットの中でもとりわけカムの住民は、古来、好戦的なことで知られていた。中国は東チベットの治安に当たって、住民からこれらの武器を取り上げた。中国側は反乱を防ぐための当然の処置と考えていたが、カムの住民の心象を著しく害した。そして住民からの銃回収は、かなり困難な作業となった。
そこで中国は、チベット人の一部を中国側に取り込んで、彼らにやらせることにした。中国は取り込んだチベット人を「積極分子(フルツン・チェンポ)」と認定し、銃回収に当たらせた。「積極分子」の役割はそれだけに留まらなかった。タムジン(闘争集会)という会合を開き、中国の統治に不満を持つものを一種の私的裁判にかけた。とりわけ名家の人間には根拠の薄い「罪」の自白を強要し、その内容によってはそのまま処刑された。他の住民はタムジンにかけられている被告を罵倒しなければならず、それを行わない者は次のタムジンにかけられることになった。
タムジンは共産教育機関でもあった。当時、中央チベットと中国とを結ぶ道路建設が盛んであり、労働者に対して当初こそ賃金が支払われていたが、1954年頃からは強制労働に変わっていた。労働者達は強制労働の後の夜、タムジンで共産主義教育を受けねばならなかった。
一方、生活環境も激変した。まず、漢人の入植が急速に進められた。さらには1954年に農業改革、1955年7月に土地共有化の促進が行われ、奴隷制が廃止された。ところがこれらの政策は全く裏目に出てしまった。新しい社会制度は機能せず、放牧地から変えられた農地では収穫が上がらなかった。道路建設に多くの労働力が割かれ、牧草地を道路用地として取り上げられることもあった。僧院の所有地が没収され、僧たちは農耕を強制された。耕作はミミズや虫などの小さな生き物の命を奪うために、僧たちには許されていなかった。このチベット仏教の教えを否定するために、僧たちは蠅や鳥などを殺すノルマを与えられた。
タムジンがさかんに開かれ、子どもたちは両親を、使用人は雇い主を、僧院の農民は僧たちを告発するよう要求された。その模様は「チベット女戦士アデ」の主人公であるアデ・タポンツァンが伝えている。
愛した人々の叫びを伝えるために戦って、生き残り、中国共産党の侵略に抵抗すべく、地下組織に加わったアデは、自分の家族と親しくしてきた僧が、四つん這いにさせられ、中国人の女性兵士から顔に小便をかけられるのを見た。群衆は、自分たちの僧が辱められるのを見て、泣いた。
民衆はすべての貴重品を提供するよう要求された。アデの指輪、腕輪、伝統的な装飾品、そして上等の服まで没収され、古いすり切れた洋服だけが残された。中国兵たちは、仏壇から仏像を持ち出し、「仏像を撃ったら、極楽に上がっていくかどうかを見てみよう」と言って、射撃の的にした。貴重品を隠そうとする人々には、容赦ない拷問が加えられた。後ろ手に、両手の親指だけを縛られて、吊り下げられた。この方法では、あまりに多くの人が死んでしまうため、後には、竹串を指と爪の間に差し込む方法に変えられた。
こうした背景があり、東チベットの住民は概ね中国の政策に対して反抗的となった。中国はその報復として次々に厳しい政策を打ち出していくという悪循環が生まれつつあった。それでなくとも、外国の軍隊の長期駐留は、地元との軋轢の原因となっていた。すでに平穏とばかりは言えなくなっていた。

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