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7.入学式

1984年4月某日。今日はいよいよ入学式である。そして同時に、親とは別れ、寮での集団生活ではあったが、一人暮しをはじめるという待ちに待った日である。家族から逃げ出したかった私はどんなにこの日を待ちわびていたことか・・・。湯の川温泉の旅館をチェックアウトし、学校へ向う。
体育館に集められた新入生達の服装は、多少フォーマルではあったがまちまちであった。それもそのはず、我が母校には制服が無い。服装・髪型は自由なのである。 函館に来る前に大阪で高校合格者の父兄を対象に開かれた学校説明会のおり、PTAにあたる「母の会」関西支部のオバチャンが嬉しそうに話していたのを思い出す。
「函館の学校は服装も自由で、中には半ズボンで走りまわっている生徒もいますのよ。」
いかなる経緯でそのようになったのか?改めて同窓会会員名簿の学校沿革概要を見てみると、まず、1969年に制帽着用が自由化されている。続いて1970年には制服の着用も自由化された。時代を考えて頂きたい。時は60年代末から70年代時初めの頃である。
1968年(昭和43年)頃から東大闘争、全学共闘会議(全共闘)と呼ばれる運動形態が現れた。全共闘は、それまでの全学連のような特定の政治党派の影響が強い既存の学生自治会に拠る運動とは異なり、党派や学部を越えたものとして組織作られ、ノンセクト・ラジカルと呼ばれる党派に属さない学生が数多く運動に参加した。彼らは武装を辞さず、大学をバリケード封鎖することによって主張の貫徹を試みた。東京大学で始まった全共闘運動は1969年(昭和44年)には全国に広がり、国公立大学や私立大学の大半が、何らかの闘争状態・紛争状態となった。
こうした学生運動は、一部の浪人生や高校生などにも波及し、運動は、生徒会などを取り巻く環境の改革運動、服装自由化運動や制服廃止運動、教育課程や教育方法の改善運動を派生させたこともあった。我が母校もその例に漏れず荒れていたらしい。 同窓会会員名簿の学校沿革概要には触れられていないが、生徒手帳の学校沿革ではその頃、一時卒業式も中止になったらしいと書かれていた。後日、姉ちゃんにそれを見せるとこう言った。
「アンタの学校もムチャするな~~~」
大阪の学校説明会には、たしか1996年に他界された野本副校長が来ていたな~としみじみ思い出す。一応、同窓会西日本支部のサイトで確認してみると、
「おお~~~。数学の大場先生も2001年に亡くなっているではないか!」
大場先生にはよく宿題をやって行かなくて授業中立たされたものである。また、大場先生は記念すべき学校設立第1期生の3年A組を担任され、教頭も勤められたかなりご年配の先生であった。数学の授業で、よく座標軸上の点Gを指すときに、
「ここがGスポットだ!!!週刊誌でよく見るな~~~」
とぬかしたエロジジイである。学園紛争の責任を取って教頭は退かれたというが、なお重鎮であった。
そうか~~~亡くなったか~~~
母校を卒業してはや26年。生者必滅 会者定離。時の流れを感じる。
合掌。
さて、入学式ではアンリ・ラクロア校長のスピーチが始まった。この時のスピーチは日本語だったか英語だったか忘れてしまったが、朝礼の時にはいつも英語だった。校長はフランス系カナダ人のブラザー(修道士)である。普段は、英語担当の外国人ブラザーの先生達と共に学校と棟続きの修道院で生活しており、日常会話はフランス語である。
「こりゃ、なんや面白そうな学校やな~~~」
と、思ったかどうか・・・
実を言えば入学式のエピソードはほとんど忘れてしまった。28年前である。当然か?
入学式を滞り無く終えた新入生達はその後、各教室に入り担任のオリエンテーリングを受けた。1年の時の担任は音楽の宮崎先生(通称ミヤビン)だ。宮崎先生はさすが音楽の先生だけあって、その時のネクタイの柄はもちろん「♪」だった。
「えらい趣味しとるな~~~」
そんなことだけはちゃっかり覚えているのだが・・・
学校での儀式が一通り終わると、舞台はいよいよ寮に移る。

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