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2.ひとまず東京へ

時は昭和の59年(1984年)2月某日。私と母は新幹線で東京へと向っていた。高校の入学試験が東京であったからだ。今では大阪にも受験会場があるが、私が受験した当時は東京が一番近い受験会場だった。
今日から1泊2日の受験の旅。観光旅行ならいざ知らず、人生の行方を決める大事な入試を明日に控えているのであまりのんびりと車窓の風景を楽しんだり眠ったりは出来ない。滑り止めの大阪の私立の男子校には合格していたので気分的には多少余裕があった。しかしそれでは実家から出るという目的が果たせない。絶対に合格しなければならなかった。私は完璧主義である。
受験勉強は万全にしてきていたつもりだったが、理科の応用問題で分からなかったところがあった。そこで、座席に座るや否や苦手の理科の参考書を広げ、右手の3本指でフレミングの法則などをあれこれと考えていた。力学くらいはわかってはいたものの、電磁誘導などいまいちわからない。あと、ネックは化学。父は応用化学の専門家なのに、どうやらその血は受け継いでいなかったようだ。未だに誰の血をひいているのか良くわからない。(高校に入ってからも、物理の電子と化学で躓いてしまい、建築を志すも工学部には行けなかった。その代わり美大に行くことになったのだが・・・人生って・・・涙)
ちょうど、新幹線が関ケ原を通過する頃、母がお昼を食べようというので食堂車(当時、新幹線には食堂車なるものがついていた。ご存知だろうか?)へ行って食事した。全盛期の新幹線には、定期列車の「ひかり」では全列車食堂並びにビュフェの営業が行われていた。一部列車ではグリーン車へのシートサービスも試みられていたが、カフェテリア車により食堂営業は縮小に転じた。さらに1992年の「のぞみ」運転用に開発された300系電車では食堂車が製造されなかったこと。1995年には0系「ひかり」食堂車は営業休止となり、2000年には100系食堂車の営業も終了し、東海道山陽新幹線での歴史に幕を閉じることになる。受験勉強は一時ブレイク。何を食べたのかは覚えていないが、とりあえず何か食べた。食べ終わるや否やまた座席に戻って、こんどは過去問題の研究。時速300kmで東へ進む中、約3時間の悪戦苦闘の末、富士山を見逃し、箱根の山を越えて新幹線は花の都、東京へ到着した。
予約していたホテルは新橋の第一ホテル。ここは大昔、家族で大江戸見学に来た際に泊ったホテルで、何故なのか不明だが、東京で宿泊すると言えば「第一ホテル」と決まっていたような・・・チェックインを済ますと、まずは会場の下調べと、新宿区に行った。新宿とは言ってもあの超高層ビルが林立する西新宿ではなく、JR(当時国鉄)飯田橋駅に近いとのこと。東京理科大のそばに明日の戦場「家の光会館」はあった。
「“家の光会館”やって、やっぱりカトリックやな~~~シャレてんな~~~」
などと、関西弁の嫌味の一つくらいはかましたかもしれない。
家の光会館の一応の下見を済ませた後、ホテルへの帰りはバスにしようということになって、乗ったのは良いが、次の停留所が終点だと言われ、我々母子はまたしても飯田橋駅に戻ることになった。東京のバス路線は異常にややこしい。
ホテルに帰って小休止した後、ちょうど出張で偶然東京に来ていた父と新橋で落ち合い、せっかく東京に来たのだから「銀座」で夕食でも食べようということになり、一路銀座へ。しかし、勝手の知らない街なので、どこへ入っていいものやらわからず、銀座を1時間ほどうろちょろした3人は、あこがれの「帝国ホテル」を横目に第一ホテルへと帰った。夕食を食べたのはホテルの地下のレストラン街のしゃぶしゃぶ屋。なんでいちいちそんな細かいことまで覚えているのかというと、それが私のしゃぶしゃぶ初体験だったからである。
部屋に帰ると、最初は私達(私と母)と父は別々の部屋で、2部屋とる予定だったが、
「今からトリプルに替えてもらったら、安くつくで」
とのいかにも関西人らしい父の一言で1部屋に3人で寝ることになった。
時期は今や受験シーズン真っ最中。テレビの横にはホテルには付きものの有料の特別番組が休止中との張り紙が!!!嗚呼!!!と言っても両親と一緒なので見られるわけがない。街でもらった英語の東京案内を「英語の勉強や!」と言って眺めつつ、眠りについた。


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