1.函館との出会い
さて、函館日記第一弾。
どこから書き始めようかと思っていたのだが、やはり函館との最初の出会いから書くことにした。私は性格的に物事を時系列的に書くのが向いているのだ。途中から思い浮かんだことを書き綴り、時々遡っては過去のことを書くというのがどうも苦手なのである。
あれは確か中学3年生のときだった。それまで函館はおろか北海道とはなんの縁もゆかりもなかった。高校受験を控えた同級生達がみな同じように地元(京都・大阪・奈良)の高校を志望校にしていた中で、人と同じ事をするのが我慢のならかった私は、ふと、書店で見かけた全国版の高校案内を購入し、どれどれとパラパラ学校選びをはじめた。たまたま大阪梅田の紀伊國屋書店で買ったものだと思う。私立校ばかりだったが、北は北海道から、南は九州(沖縄はあったかな???)までの学校がずらりと並んでいた。上は天下の灘高校や開成高校から下は名前も聞いたことがない学校まで。
以前にも、中学2年の時の面談でアメリカのハイスクールに行きたいと言い放ったこともあるのだが、さすがにこれは担任の糞ババア女教師と親とに直ちに却下された。国内のインターナショナル・スクールでも良かったのだが・・・それではと、国内でもいいから遠くの学校に進みたい。当時、頭にあったのは、どうしても家から出たい、家族から離れたい。その一心が私の機動力であった。反抗期の真っ最中。このまま両親と同居し続けるといつの日か奴らを殺してしまうかもしれない。かなり危機的な状況にあった。そのためには一人になるしかないのでは?
しかし、敵(両親)を説得させるにはそれなりのネームバリューのある学校で、生活するために寮が完備されていて、なおかつ自分の偏差値で確実に合格できる学校を選んでそこに入学しなければならない。当時の私の偏差値は69くらいであった。全国くまなく探して、これならと見つけたのが、北海道の函館のカトリック系の男子校、函館ラ・サール。男子校なので青春時代の女の子との甘い思い出作りは無理だが、もうこの際それはどうでもいい。実家から離れることができたら百点満点だった。
同系列の学校は鹿児島にもあるが、その学校は私の偏差値ではとうてい無理。でも、函館ならなんとかなる。そう思うと、その学校に行きたくて仕方がなくなった。「北国」という言葉の響きにも惹かれた。しかも港町で、日本三大夜景の町である。100万ドルの夜景だ。ちなみに、日本三大夜景の町の他の2つは摩耶山(兵庫県神戸市)と稲佐山(長崎県長崎市)である。また、校長がアンリー・ラクロアというフランス系カナダ人と言うのもなんだかお洒落だった。 ちなみに、歴代の校長はカナダのモントリオールから派遣されてくる修道士である。初代校長ブラザー・ローラン・ルエル、第2代校長ブラザー・モーリス・ピカール、第3代校長ブラザー・アンリー・ラクロワ、第4代校長ブラザー・アンドレ・ラベル、第5代校長ブラザー・フェルミン・マルティネス、第6代校長(現校長)ブラザー・ロドリゴ・テレビニョ。
ざっくりと、函館ラ・サールの沿革を述べると、1932年(昭和7年)にラ・サール修道会が来日し、函館市での学校設立を計画した。1934年(昭和9年)に同市で函館大火が発生すると、同市での学校設立を断念して一行は本州に渡り、仙台市に外国語学校を設立した(ラ・サール・ホーム)。1950年(昭和25年)に(鹿児島)ラ・サールを開校した後、函館市での開校を再び目指し、1960年(昭和35年)に函館市日吉町に函館ラ・サール高等学校が設立された。1999年(平成11年)に函館ラ・サール中学校を新設、中高一貫教育となった。中学の約7割、高校の約6割が寮生であり、関東・関西・中部地方出身者も多い。寮においては、中学は3年間、高校からの入学者は最初の1年間、全国唯一の「50人大部屋寮」で過ごす。入試は函館の本校のほか、札幌、東京、大阪、名古屋などの会場でも同時に行われている。
そこで親には内密で学校案内を取り寄せ、願書を出した。親としては周りの同級生同様、大阪か奈良、京都の学校に進むものと考えていたのだろう。最初は「なにをバカなことをやっているんだ」と思っていたのだろう。そのうち、こちらが本気で考えていることがわかると、しばし狼狽したように思う。とりあえず「その学校なら受けるだけ受験してみたら?」と諦めたようだった。でも、奴らが思っていたことと言ったら「どうせ受かりっこないんだから・・・」と、なかば安心していたようだが・・・しかし、私は期待を裏切るのが大好きである。悲願は実ることになった。