2019年10月のとある一日
昨日は精神科の受診のあと、普段ならキューズモールに立ち寄って軽くかけうどんを食べて帰るのだが、今日は日をまたいでお金が入り、毎月のことだが夜中に近所の「天洋」にニンニクラーメンを食べに行くので、どこにも立ち寄らずに帰ってきた。帰宅すると同時に赤ワインの「SIEMPRE」を飲みながら「小説吉田学校」を読んでいると、いつの間にか寝落ちしてしまい、起きたのが23時半で、メールのチェックをしながら、昨日、ブックオフオンラインで買ったディアマンダ・ギャラスの「The Divine Punishment」を聴く。
ディアマンダ・ギャラスは、アメリカのソプラノのスフォガート、作曲家、ピアニスト、オルガニスト、パフォーマンスアーティスト、画家である。気に入らない質問をしたインタビューワーの腹にいきなり前蹴りを食らわせたこともあるくらいエキセントリックなボイス・パフォーマーで、社会的メッセージの強いテーマを取り上げることも多く、レッド・ツェッペリンのジョン・ポール・ジョーンズとロック・アルバムも出したりもしている。マイクを2本使ったヴォイスパフォーマンスが有名だ。
ディアマンダ・ギャラスのCDと一緒に買ったのは、ペヨトル工房から出されていた雑誌の「夜想」のバックナンバーである。最近、ペヨトル工房から出されていた「夜想」、「WAVE」、「銀星倶楽部」などのバックナンバーを集めていて、ブックオフオンラインで中古が出るとメールで知らせるようにしている。
ペヨトル工房は今野裕一によって1978年7月に創立された。「ペヨトル」という社名は、幻覚剤として用いられるペヨーテというサボテンのフランス語名Peyotlに由来する。より直接的には、アントナン・アルトーの『タラユマラ』から採られたとも。他の出版社が扱わないマイナーな海外文学や芸術に関する書籍を世に出し、1980年代のサブカルチャーに大きな影響を与えた。現代美術家/メディア・アーティストの三上晴子や東京グランギニョルの飴屋法水を知ったのも、ペヨトル工房の「WAVE」だったと記憶する。その後の三上晴子の年譜をネットで調べていたら、母校の多摩美術大学に行き当たったのが意外だった。2000年から多摩美術大学美術学部情報デザイン学科メディア芸術コースで教授をしていた。2015年1月2日に亡くなっている。享年53。
1時を過ぎたのでコンビニATMで振り込みと出金をした後、予定通り「天洋」にニンニクラーメンを食べに行く。その帰りに再びローソンによって赤ワインの「MICHAY」を買って、自宅に帰って飲みながら「小説吉田学校」の続きを読んでいると、何度かウトウトし、再び起きたのが5時過ぎだった。軽く入浴し、モーニングコーヒーを飲みながら日記を書いている。今日の予定は9時に病院に行ってリハビリを受けた後、役所で用事を済ませると、13時の法テラスの法律相談までは特に用事がない。
8時半ごろ、Yから電話があって頼みたいことがあるとのこと。また用事を頼まれる。Yは風邪気味なのに私の部屋にやってきて、家賃の振り込みや各種支払、警察への用事や買い物などを書いた紙とキャッシュカードや支払い用紙などを持参していた。退院したと思ったらまた以前のようにこき使われる。私が断れないのを知っているので確信犯だ。
まずは銀行に行って家賃を振り込む。振込先は私と同じマンションなので同じである。それが終わると、残金を全額引き出してコンビニに向かった。次は支払いだ。Yの場合、auのかんたん決済をかなり使っているので、けっこうな額になる。それに電気やガスなどの光熱費やネットの回線費、その他もろもろで、合計は78,000円近くなった。残ったお金は数千円。私だったらこれだけで死にたくなる数字である。しかしYはケロッとしていている。その上、「お金、けっこう残ったね」とぬかしやがる。
次に警察署に行って、Yが壊したMのオッサンの部屋のバルコニーの間仕切りを弁償した(この支払いもYの代わりに私が行った)領収書を警察の刑事課でコピーしてもらう。担当は女性刑事だった。その後、Mのオッサンがうちのマンションに出入りしていないかとか、Kの怪我の件とかを軽く話して、私が今日の午後、法テラスに相談に行くと言うと納得していたようだった。その女性刑事は帰り際、「Yさんがすごい頼りにしているそうですね~~~」と一言つぶやいた。「まあ、保護者代わりですからね~~~」と言いたかったがやめておく。
そのあと、私の用事で区役所に行って、用事を済ませて病院で頸椎の椎間板ヘルニアのリハビリを済ませると、あとは買い物だけである。この買い物も、Yのリクエストで、業務スーパー、ドラッグストア、コンビニの3軒に寄らなければならない。それぞれ売ってるものが違うから。私の買い物は赤ワインの「SIEMPRE」だけなのだが、Yの分を入れると、自転車で持って帰れるぎりぎりの量になった。自宅についたのが11時半。30分したら法テラスに向かわなければならない。
法テラスは西天満の弁護士会館の1階に入っていて、最寄駅は地下鉄の北浜駅である。北浜駅で降りると、すぐに北浜ミッドタワーの威容が目に付いた。既に竣工はしていて、間もなく入居が始まるだろう。その先にはプラウドタワー北浜が建設されていて、外観はほぼ完成している。
北浜は、1743年(寛保3年)に金・銀・銭の取引相場を決める金相場会所が高麗橋より北浜へ移転。また、1777年(安永6年)には長崎向けの輸出商品を売買する俵物会所が備後町から北浜へ移転された。明治以降は金相場会所跡地に大阪株式取引所(現・大阪取引所)が設置され、有力な両替商らによって銀行などが設立された。1845年(弘化2年)に大村益次郎、福澤諭吉らを輩出した緒方洪庵が開設の適塾が津村東之町(現・瓦町3丁目)より過書町へ移転。1875年(明治8年)には蟹島新地とも呼ばれる北浜東端の築地において、大久保利通、木戸孝允、板垣退助らが会談して日本の三権分立と漸次立憲が決定づけられた大阪会議が開かれるなど、北浜は日本の近代化に大きな影響を与えたところでもある。以前は全くのビジネス街だったが、最近はタワーマンションの建設が相次いでいる。
法テラスではMのオッサンの件で相談に行ったのだが、ストーカー案件でない限り接近禁止命令は無理だとのこと。ただ、Kの傷害や器物破損などについては、警察が被害届を受理しなかったことについては警察の怠慢であり、弁護士が動くと警察も動かざるを得ないとのことであった。ただ、私自身について言えばMのオッサンは一切無視しているし、うちにも来なくなったので、実害はほとんどない。弁護士の話では、私とYとKで時間を合わせて事務所に行ったら対策を検討しようと言ったが、私が今後、どこまで対応したらいいのか正直わからない。
自宅に戻ってきたのは14時前だった。お茶漬けとスパゲッティを食べたあと、睡眠薬を飲み、赤ワインの「SIEMPRE」を飲んで寝ることにする。
「小説吉田学校」は、ワンマン宰相・吉田茂が、池田勇人や佐藤栄作ら「吉田学校」の門下生たちを率いて日本の講和独立を果たした後、鳩山一郎ら党人派との熾烈な権力闘争に挑む姿を中心に、第2次吉田内閣から鳩山内閣成立までを描く第1部 「保守本流」を読み終えて、保守合同に命を賭ける鳩山派の謀将三木武吉、日米安保に執念を燃やす岸信介、そして河野一郎、大野伴睦ら党人政治家たちの姿を中心に、鳩山内閣から池田内閣までを描く第2部 「党人山脈」を読み始めたのだが、どこまで読んだのかわからないところで寝てしまった。