30.企業研修
3年生の春休み前だっただろうか、就職課の掲示板を見ると、春休み期間中に丹青社という商業施設・展示施設の内装・展示物等の製作を行う会社の企業研修会が行われるという案内が貼り出されていた。乃村工藝社と並ぶ、日本のディスプレイ業界の二大業者のひとつである。期間は2週間だったと思う。3年生のこの季節なので、就職絡みの研修なのかと思ったが、私自身は丹青社に入社したいという気持ちは全くなく、研修期間中の服装も自由と書いてあったので、それほど堅苦しい雰囲気ではないだろうと思って応募してみた。研修は、本社で行われ、今は本社は東京都港区港南1丁目2番70号 品川シーズンテラス19Fに移転しているが、当時はJR御徒町駅から歩いてすぐのところにあった。研修中は八王子の鑓水から毎日御徒町まで通うことになる。確か交通費と、ちょっとした研修費みたいなものが出たと思う。鑓水から御徒町に行くには、当時、京王相模原線が橋本まで伸びており、橋本まで自転車で行き、京王線で新宿、新宿から秋葉原まで総武線、秋葉原から山手線を一駅乗って御徒町である。時々、交通費を浮かそうと思って秋葉原から歩いたこともあるが、大した節約にはならなかった。
研修初日、丹青社本社の会議室に行ってみると、私以外の参加者はみなスーツ着用だったので内心焦ったが、会社の人の説明を聞いてみると、この研修会は就職活動を意識したものではなく、純粋に職業体験らしい。私以外の参加者は、多摩美術大学の建築科が私の他に2人、グラフィックやプロダクトの学生数人、武蔵野美術大学や愛知県立芸術大学、私が受験をサボった金沢美術工芸大学、その他、地方の美術系大学から数人ずつという顔ぶれだった。地方からの参加者は、会社が用意した西葛西のマンションに泊まり込んでいるという。
初日にやることは、事務的な手続きに続いて社内の案内である。各部署や資料室などを見て回り、現在進行中のプロジェクトの進行状況などを見せてもらった。CADで図面を描いている部署で、参加者の中でCADを使ったことがある人と聞かれて私だけが手を挙げた。まだまだCADは設計の現場では一般的ではなかったのである。私がCADを使っていたのは、後に述べることになるが、卒業論文でCADを利用した研究を行おうとしていたためで、まだ多摩美術大学にはCADがなく、原教授の紹介で、相模原市にあった職業訓練大学校(現在は職業能力開発大学校と名前を変えて、小平市の職業能力開発総合大学校東京校と統合・移転している)の山崎研究室で日本DEC(ディジタル・イクイップメント・コーポレーション)のEWSでGDSという3次元CADシステムのオペレーティングのトレーニングをしていた。
初日の午後にもう始まったかどうか忘れてしまったが、最初の課題は、数名ずつのグループに分かれてデザインリングのショップ調査である。最初に向かったのは渋谷のヨンドシー(4℃)のショップだった。ヨンドシー(4℃)は1972年にスタートした日本のジュエリーブランドで、20代女性を中心にプレゼントされて嬉しいブランドのひとつとして人気を集めている。価格もそれほど高くない。我々が見るのはショップのデザインと商品構成である。その後、場所を銀座に移動して、三越や和光のジュエリーショップの調査を行った。とくに印象に残ったのは、CHAUMETのショップである。デザインリングとブライダルリングと扱っている指輪の違いや、ブランドの格の違いはあるものの、ショップの雰囲気がまるで違っていて興味深かった。グループを代表してかどうか忘れてしまったが、私が発表することになり、鉄道沿線やそこに広がる住宅地や住民の違いによってショップデザインや商品構成も変わってくるといった後背地について発表したと思う。
その後の各課題は、スポーツクラブの課題なら、豊洲にある実際のスポーツクラブを見学、博物館の課題なら、当時渋谷の公園通りにあったたばこと塩の博物館や渋谷区神南で東京電力の子会社である東電ピーアールが運営していた電力館を見学、イベント会場の課題では、再開発される前の汐留貨物駅跡地のイベント会場を見学して、それもまたグループ発表したり、動線計画のフローチャートなどの作成を行った。ただ、電力館の見学の時は、原子力発電の仕組みを解説・PRする模型の展示があり、何かと問題のある原子力発電の展示について、参加学生の違和感なども発表されたと思う。
昼食などは各自用意するなり、会社の近所のレストランに数名で行くなりして食べていた。一度、JRの高架下にあるとんかつ屋に多摩美の建築のやつと2人で行ったのだが、その店の大将がやたらと店員を罵倒するオヤジで、我々は黙々と食べたあと、店を出ると大爆笑したことがあった。
研修も終わりに近づいていたある日の昼休み、何気ない日常会話の中で、かつて六本木のサニーランドビルの3階にあった「RAZZLE DAZZLE」というクラブで踊っていた時に、絡んできた女の子がいて、いい雰囲気になって店のトイレでイチャイチャしてヤってしまった話をポロっとしてしまい、それ以後、多摩美の建築科中にその話が広まってエロの烙印を押されて女子学生に白い目で見られることになったほか、武蔵野美術大学の、今は学科編成で名前が見えなくなったファッションデザイン科の女の子がその話で大受けして、私のエロ話が武蔵美にも広がってしまった。たぶん、よく私に話しかけてきていた2人の武蔵美のファッションデザイン科の女の子が学校に帰って盛んに吹聴したのだと思う。その女の子の一人から卒表製作展の案内が来たので武蔵美に行ってみたら、ファッションデザイン科の実習室にいた女の子全員が私を見て指を指したのでわかったことである。
さて、そんな企業研修も無事終わり、参加者全員で御徒町駅前の居酒屋で打ち上げをすることになった。1次会の話題はもっぱら私のエロ話である。こういう話は、何故か男子よりも女子の方が興味津々らしく、根掘り葉掘り聞かれるのだが、私も微に入り細に入り話すわけにもいかないので、適当にお茶を濁して話したのだが、追求はしつこかった。
1次会が終わり、居残り組は2次会へ向かうのだが、酔も手伝ってか、確か金沢美術工芸大学の女の子だったと思うが、当時西麻布にあってよく通っていた「Space Lab YELLOW」というクラブに一緒に行こうと、ちょっと強引にも誘ったのだが、エロ話があって私のことを危ない男だと思ったようで、なかなかYesと言わないので、結局男女数名で地方から来ていた学生が泊まっていた西葛西の社員用マンションで飲みなおすことになり、みんなで地下鉄で西葛西へ向かった。マンションではそれほど飲んだ覚えはないのだが、かなり酔っていたようで、話の途中で寝てしまい、起きてからどうやって鑓水の自宅まで帰ったのかの記憶が全くない。後年、飲酒によるブラックアウトを何度も経験するが、その萌芽がこの時にあったのかと思うとしみじみしてしまう。