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発表会と打ち上げパーティー

2001年10月21日。今日はダンスのワークショップの最終日で大勢の見学者の前で発表会を行う事になっていた。このワークショップの最終的な目的はレジュメに書かれていたCo-body(共身体)とSub-body(未身体)のディープ・コミュニケーションだという。Lee氏がダンスによってしかできないディープなコミュニケーションを通して目指しているものとは、人と人がからだを開きあい、もともと生命が生まれたときは一つだった「Co-body(共身体)」を呼び戻し分かち合うこと。そして互いの社会的に訓育されたBody(日常身体)がその下に秘め持っているもう一つのからだ「Sub-body(未身体)」を探り出し、その奇妙で個性的な世界でたったひとつの動きを味わいあうことであると書かれていた。
ワークショップの続けていく中で、最初は個人のダンスから次第にペアになり、そしてペアとペアが溶け込んで最後に皆で一つになるダンスの練習をしていた。それが「Co-body(共身体)」なのだろうか?では、「Sub-body(未身体)」とは?なんとなく理解できるようになってきたところで最終日を迎えることになった。
9-10-3の屋上にはこの発表会を見ようと多くの人が集まっていた。国籍は皆バラバラだ。チベット人の僧侶や尼僧の姿もある。建築家の中原さんや高橋さんも見に来ていたので、ちょっと恥かしかったが、私はやるときはやるのである。
最初はLee氏のソロパフォーマンスで幕が開いた。最初は黒いTシャツと黒いズボンをはいてダンスパフォーマンスしていたLee氏だが、そのうちパンツ一枚(だったと記憶する)になって、動きもエスカレートしていった。そのパフォーマンスはどこか暗黒舞踏のような感じで、土方巽のパフォーマンスは見たことないがそれを受け継ぐ「動の動き」と言ったらいいのだろうか?昔、一声を風靡した山海塾が「静の動き」であるのと対照的なダンス、いや、舞踏のパフォーマンスだった。
Lee氏のソロパフォーマンスが終われば今度はいよいよ私を含むワークショップのメンバーの発表会=メンバーとLee氏とのコラボレーションだ。まずはベルギー&イスラエル組のダンスから始まり、それに続いて私が出て行く番になる。デジカメでその模様が撮影されていたこともあり、緊張と羞恥心で最初は身体が強張っていたが、恐る恐る即席のステージの真ん中まで出て行ってみると、彼等・彼女達が暖かく迎え入れてくれた。さすが1週間ワークショップを受けた仲間である。いつのまにか連帯感が出来ていた。最後は私がチベット人のyeshiを迎え入れる番になった。彼はチベット人らしく恥かしそうにしていた。私はしきりに、
「Come on yeshi」
と声をかけて手を差し出しても恥かしがってなかなか出てこない。何度呼びかけても最初の一歩が重く、手を横に振るばかりだった。そこでたたみかけて、
「Don’t be shy!!!Don’t be shy!!!」
と言うとやっとの事で重い腰を持ち上げた。
その後、ダンスコラボレーションは見学していた外国人や9-10-3で教育を受けているチベット人も巻き込んで大いに盛り上がり、一大ダンスパーティーになっていった。そして、それまで、それぞれ個人やペアで自由に踊っていた状態から次第にお互い絡み合って行き、最後はLee氏を中心にして皆が一つになって終わった。これがLee氏が言っていたボディコミュニケーションなのだろう。よく分からなかったCo-body(共身体)とSub-body(未身体)のディープ・コミュニケーションがこれだったのか?
ダンス・ワークショップも終わり、最後のコラボレーションも終わったのだが、メンバーは皆名残惜しそうにしていた。1週間のワークショップ体験は同時にフレンドシップも生みだした。1週間前にはじめて会ったときはあかの他人だったのだが、終わってみると自然と友情が生まれていたのである。おそらくLee氏のボディコミュニケーションが大きく影響したのだろう。
私が自分の部屋に戻って本でも読もうとしていると、メンバーの一人、ベルギー人の女の子B(確かベロニカだったと思う)が部屋をノックして私を呼び、9-10-3の入り口で皆が待っていると伝えに来た。下に降りていってみると、ワークショップのメンバーが溜まっている。話しを聞くと、このあとLee氏のダラムサラの家で打上げパーティーをするのだと言う。集合時間を決めると、各々は食べ物や飲み物を買いにマクロードのマーケットまで出かけていった。私はというと9-10-3の斜め向かいにあるいつもミネラルウォーターを買う雑貨屋で2L入りのコーラを買い、タバコを吸いながら9-10-3の玄関先で待っていた。皆が集まったのはそれから30分後くらいだった。Lee氏とyeshiは2つの袋にいっぱいのモモ(チベット風餃子)を手にしていた。また、ベルギー&イスラエル組もどこかで買ってきたのだろう、ピザやジュースを持ち寄っていた。
全員勢ぞろいすると、Lee氏を先頭に小道を登っていった。Lee氏の家は9-10-3からツクラカンへの近道の途中にある。Lee氏に促されて家の中に入ると、キッチンがあるダイニング兼リビングに各々が持ち寄った食べ物、飲み物を並べ、車座になってLee氏を取り囲んだ。
宴会と来るとアルコールが付きものだが、このパーティーはノンアルコールだ。しかもベルギー&イスラエル組はベジタリアンと来ている。結局、モモを食べたのは私とyeshiとLee氏だけだった(これが翌日、インドの通過儀礼=下痢につながる)。
お互いメールアドレスの交換や、ダンスについての話しなどで盛り上がっている中、私を呼びに来たBが私を部屋の隅に連れて行った。何事かと思ったら、Lee氏に寄せ書きをしたいからお前も書けと言うではないか。手帳サイズのノートには皆それぞれダンスについての思いやLee氏への感謝の言葉、ワークショップの感想などが英語で書かれていた。私もこれに英語で書かねばならないのかと思って頭を捻ったが、なかなか上手く英語で伝えられない。片言の拙い英語で2,3行書いたのだが他の仲間と比べるとやっぱり情熱の伝え方が桁違いだった。後でBは私に耳打ちしたものである。
「あなたもLee氏も日本人なんだから、日本語で書けばいいじゃない」
それもそうだ。
宴もたけなわになった頃、ちょっとタバコが吸いたくなって表に出てみると、数人の喫煙組が座り込んでタバコを吸っていた。その時、イスラエル人の女の子M(名前は残念ながら失念した。メールアドレスは分かるのだが・・・)が、
「日本人は中国人が嫌いなの?」
と聞いてきたので私も答えに窮した。私自身は中国が嫌いではない。ただし、中華思想を持つ漢民族と中国政府はあまり好きではない。まあ、それもチベット人側の立場に立っているからだろう。チベット人からするとギャミ(中国人)は敵である。しかし、ダライラマは言っている。敵はかけがえのない教師だと。敵の存在があるからこそ忍耐の修行が出来るのだ。しかしながら敵を教師だと感じることは容易ではないが・・・
「一般的に言って、日本人は中国に対して後ろめたさの感情を持っているのではないぁな~。それは戦時中の日本軍が中国で行ったことによるものだと思う。でも、中国が好きな日本人は沢山いるよ。特に年輩の人はシルクロードに憧れを抱いているから。反面、右よりの人は中国を仮想敵国にしているから大嫌いだろうね」
相手はイスラエル人の女性だったのでパレスティナ問題についても聞いてみたかったのだが止めておいた。政治的な話は時としてタブーである。
「私、日本に行ってみたい。桜の咲く季節って綺麗でしょ?」
彼女との会話はそこで終わった。
Lee氏の部屋に戻った我々は、彼と一緒に今日、踊ったダンスのビデオ(デジカメで撮影したもの)を鑑賞した後、打ち上げの1次会は解散した。
ところが、1次会だけで済む我々ではない。チベット人のyeshiはお土産のモモを抱えて帰っていったが、残った者は2次会へと繰り出した。ちなみに全員素面である。
真っ暗な坂道をライターの火で照らして降りて行き、Jogibara Roadを登っていってMOON LIGHT CAFEでチャイを飲んだ後、バグスナート(Bhagsunath)へ行こうということになり、暗い夜道をワイワイ騒ぎながら歩いていった。後で分かったことだが、私を除くベルギー&イスラエル組はマクロードではなくバグスナートに滞在していた。おそらくマクロードのゲストハウスよりも安いのだろう。ロンリープラネットのガイドブックにそのように載っているのかもしれない。
バグスナートの入り口にさしかかると、
「ようこそ、私たちの村に!!!」
とBが言った。彼らの拠点に到着である。マクロードからは2.5km。歩けばちょっとした距離である。途中、タクシーが通りかかった時、皆でしがみ付いて嬌声をあげるなど、ほとんど酔っぱらいに近いことをやっていたのだが、何度も繰り返すが全員素面である。素面でここまで盛り上がることが出来るのは、シャイな日本人の目から見ると驚異的である。毎日のダンスワークショップにも彼らはバグスナートからワイワイ言いながら歩いて通ってきていたのだろう。その行動力には頭が下がる。イスラエル人の女の子ジルとはここでさよならだ。皆で抱き合って再会を誓い合った。
バグスナートでは、山の麓(集落からはけっこう坂道を登っていったように記憶する)の店で音楽パーティーをやっていた。みなそれぞれ持ち寄った楽器を手に、焚き火を囲んで思い思いに即興で演奏している。焚き火の火が消えかかると、店員が薪をくべ、石油をぶっかけて炎を上げさせていた。
パーティーはこれと言って盛り上がりを見せることなく淡々と進行していっていたが、チャイを飲みながら(中にはウィスキーを回している輩がいたが・・)見ていた我々はだんだん飽きてきて、お開きと言うことになった。ベルギー&イスラエル組はバグスナートに滞在しているからいいものの、私は真っ暗な道を通ってまたマクロードまで戻らなければならない。マクロードに戻る途中、イスラエル人のMとの別れ際、
「貴方は私が出会ったはじめての日本人よ」
そう言うと、お互いハグしたのが印象に強く残っている。彼女の日本人に対する印象が良いものであってもらいたいものだ。
マクロードの夜中は野犬が支配していた。その中を突っ切っていく勇気がなく、回り道をして9-10-3に帰ってきたのが夜中の2時過ぎだった。ミネラルウォーターで残り少ない精神安定剤を飲んでベッドに入った。おそらく眠れないだろうな~とは思っていたが、予想は的中していた。しかも翌朝にはインド滞在の通過儀礼のおまけまで付いてくることになる。

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