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1. 建築との出会い

私が初めて建築を意識し始めたのは、まだ物心ついていないことだったと思う。小さかったころは近所に野崎観音というお寺があったし、よく、祖母に連れられて近郊の寺社仏閣詣りに行っていた。だから、私の初の建築は自ずと寺社建築であった。
野崎観音は、正式には福聚山慈眼寺と言って、大阪府大東市野崎にある曹洞宗の寺院であり、河内西国三十三箇所特別客番である。天平勝宝年間(749年 - 757年)に天竺(インド)から来朝した婆羅門僧正が行基に「野崎は釈迦如来が初めて仏法を説いた鹿野苑(サールナート)に似ている」と語り、それを受けた行基が、白樺で十一面観音を刻んで当地に安置したのが始まりと伝えられる。生駒山地北部の中腹に位置し、境内からは大阪平野を望むことができ、境内から野崎城跡をへて吊り橋を通って飯盛山・飯盛山城跡などへ至る登山道があるため、休日は登山者の参詣も多い。かつての「野崎詣り」は大坂から川を遡り、かつて生駒山の麓に存在した深野池まで舟で行くという参詣の風景が見られ、人形浄瑠璃(人形浄瑠璃・歌舞伎『女殺油地獄』(近松門左衛門))や落語(上方落語『野崎詣り』)等のフィクション作品の舞台となっている。
また、バスに乗ってちょっと行くと石切神社があって、そこにもよく祖母に連れて行かれた。ここも正式には石切劔箭神社と言って、大阪府東大阪市にある神道石切教の神社で、延喜式神名帳に記載されている。「石切さん」「でんぼ(腫れ物)の神様」として親しまれ、本殿前と神社入り口にある百度石の間を行き来するお百度参りが全国的に有名。創建年代は、火災により社殿及び宝庫が悉く消失したため詳らかではないが、代々の社家「木積」家には、皇紀2年に生駒山中の宮山に可美真手命が饒速日尊を奉祀されたのを神社の起源とし、崇神天皇の御世に現本社に可美真手命が奉祀されたと伝わる。現在確認できる文献では、日本三代実録(巻十一)に「貞観7年(865年)9月22日に河内国正六位の石切劔箭神社従五位下を授く」との記述がみられ、延喜式神名帳にも「石切劔箭命神社二座」とみられる。
少し大きくなると、小学校の友人たちと自転車で大阪城に遊びに行ったり、鉄道模型を見に、梅田の阪急百貨店によく行った。
大阪城は天守閣には入らなかったが、「大阪城跡」としての特別史跡の城郭内を自転車で走り回った思い出がある。あまりにも身近な存在で、愛着もあったので、その頃、買ってもらったプラモデルは全てお城のプラモデルだった。それを見て親戚の叔母はよくぼやいていたものである。
「このくらいの年の子は、飛行機や車のプラモデルを欲しがるのに、なんでこの子はお城なんや」
プラモデルだけではなく、自宅の庭に土でお城を作って一人で妄想しながら遊んでいた。
阪急百貨店は、近年建て替えられる前の旧梅田阪急ビルで、阿部美樹志と竹中工務店設計の戦前のモダン建築で、東西の入り口には中国の伝説をモチーフにした伊東忠太の壁画が施され、階数表示が独特のエレベーターやモザイク張りのディテールなど、どことなく惹かれるものがあった。旧梅田阪急ビルは取り壊されてしまったが、そんな雰囲気はヴォーリス設計の大丸心斎橋店に一部保存されている。
建築との触れ合いが身近だったにも関わらず、中学時代は建築を志す気持ちはなく、歴史や地理が好きだったので、歴史学者や考古学者、外交官などに憧れていた。
私が初めて建築の道に進もうと思ったのは、高校の2年生の時である。私の高校は北海道の函館の学校で、道内各地や本州(と言っても東日本がほとんどだったが)各地から生徒が集まってくる一応の進学校で、自宅から通学できない生徒は寮で暮らしたり、下宿したりしていた学校だった。そんな中で、音楽にはまってほとんど勉強もしなかった割には数学の成績が良くて、もしかしたら私は理系が向いているのではないかと、当時は錯覚していた。勉強はしなかったものの、学校の図書館には入り浸っており、その時に出会った海外の著名建築家の写真集に惹かれたのが転機である。当時、私が知っていた著名建築家と言えば中学の社会見学で明治村に行ったときに見た旧帝国ホテルを設計したフランク・ロイド・ライトくらいだった。しかし、図書館で見た、主にモダニズムの建築家たち、ミース・ファン・デル・ローエやフィリップ・ジョンソンなどの作品に強く惹かれるものがあった。
ミース・ファン・デル・ローエは、ル・コルビュジエ、フランク・ロイド・ライトと共に、近代建築の三大巨匠、あるいは、ヴァルター・グロピウスを加えて、四大巨匠とみなされる建築家で、「Less is more.」(より少ないことは、より豊かなこと)や「God is in the detail」(神は細部に宿る)という標語で知られ、近代主義建築のコンセプトの成立に貢献し、柱と梁によるラーメン構造の均質な構造体が、その内部にあらゆる機能を許容するという意味のユニヴァーサル・スペースという概念を提示した。また、1919年、ヴァイマル共和政期ドイツのヴァイマルに設立された、工芸・写真・デザインなどを含む美術と建築に関する総合的な教育を行った学校で、無駄な装飾を廃して合理性を追求するモダニズムの源流となった教育機関であり、活動の結果として現代社会の「モダン」な製品デザインの基礎を作り上げたバウハウスの第3代校長を務めた。主な作本は、バルセロナ・パビリオン、ファンズワース邸である。
フィリップ・ジョンソンは、1932年、建築史家のヘンリー・ラッセル・ヒッチコックと共に近代建築展(インターナショナル・スタイル- 1922年以後の建築)を開催し、アメリカにヨーロッパ最先端のモダニズム建築を紹介した。翌年には「アメリカ・スカイスクレーパーの誕生」展を開催するなど精力的に活動し、1946年から1954年にかけて再度ニューヨーク近代美術館(MOMA)のキュレーターに就任。1947年には「ミース・ファン・デル・ローエ」展を開催し、アメリカで初めてミースを紹介しその活動に助力した。 ミースのシーグラム・ビルディングにも協力し、モダニズムの建築家の代表となった。ミース・ファン・デル・ローエの影響を強く感じさせる作品に「ガラスの家(自邸)」がある。
もう一人、私に決定的に影響を与えた建築家として、ミノル・ヤマサキがいる。ミノル・ヤマサキは、ワシントン州シアトル出身の日系二世の建築家で、2001年9月、アメリカ同時多発テロで崩壊したニューヨークの世界貿易センタービルの設計者である。1 WTCから7 WTCまでの7つのビルによって構成されていたが、特にその中心施設であった110階建オフィスビルのツインタワー(1 WTCおよび2 WTC)は完成時に世界一の高さを誇り、2棟の巨大な直方体が並び立つ姿はニューヨーク市やマンハッタンのシンボルとなっていた。WTCのデザインはヤマサキによるゴシック・モダニズム建築の独創的な表現であったほか、ル・コルビュジエの建築哲学が顕著に反映されており、1棟だけならば非常に凡庸なビルであるが、ツインタワーとすることによってミニマリズム的なリズムが生み出されていて、ミース・ファン・デル・ローエとフィリップ・ジョンソンの共同によるシーグラム・ビルディングとともに、超高層=スカイスクレーパーが好きだった私に非常に影響を与えた作品である。


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