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大阪市内をサイクリング(その2)

「SIEMPRE」を飲んで寝たり起きたりを繰り返したが、夜中の1時半にはっきりと目覚めてしまった。このまま起きていて、読みかけのハンフリー・ホークスリーの「中国の野望」を朝まで読んでも良かったのだが、なんだか口寂しくなり、それにタバコもなくなったこともあって近所のローソンに行き、タバコと一緒に赤ワインの「MICHAY」を買ってしまった。それを飲みながら読書の続きである。真夜中の迎え酒になってしまった。
昨日から今日にかけては睡眠薬は一切服用していない。ワインの酔いだけで断続的ではあるが眠ることができた。普通、こういう場合、奇妙な夢を見るもので、少しはそれを期待していたところもあるのだが、この夜に限っては夢の記憶はない。
「MICHAY」を飲みながら読書していると、またしても寝落ちしてしまい、次に目が覚めたのは朝の5時だった。まだワインの酔いが残っていて、頭がボーッとしている。グラスにはワインの飲みさしが残っていたが飲む気はしない。喉が渇いていたので冷えた麦茶を何杯も飲んで頭をシャキッとさせ、明るくなってきたところで昨日に引き続き自転車で大阪を走り回ることにした。
今日のコースは漠然と決めていて、釜ヶ崎、新今宮、南海線のガード下、日本橋のオタロード、新世界あたりを走る予定にしていた。自宅マンションからは南方面なので、とりあえず今里筋を南下する。大池橋で右折して勝山通りを進み、環状線を越えたところで玉造筋に入って一路天王寺に向かう。勝山では古い4階建ての市営住宅が建て替えられている最中で、お知らせ看板をチェックすると15階建てのマンションに生まれ変わるとのこと。このあたりも高層化されるのだ。
天王寺を過ぎてあびこ筋の坂を下って行って、そのまま釜ヶ崎に向かっても良かったのだが、阪神高速の手前で路地に入った。この路地をまっすぐ行くと飛田新地に出る。飛田新地は大阪市西成区の山王3丁目一帯に存在する、古い言葉で現せば遊廓、赤線街である。大正時代に築かれ、日本最大級の遊廓と言われた。現在もちょんの間が立ち並んでいて、ちょんの間は料亭の名目で営業しており、実際に売春が行われている。1958年の売春防止法施行以後は、料亭内での客と仲居との自由恋愛という脱法行為として売春防止法を逃れているそうだが、入ったことはない。朝早かったのでちょんの間=料亭は皆閉まっていた。営業しているときは写真撮影は厳禁なので一応記念にスマホで通りを撮影しておく。飛田新地をしばらくウロチョロしたあと、南端まで行って、今度は南海線に沿って北上するかたちで釜ヶ崎へ入っていった。
釜ヶ崎には思い出が詰まっている。大学3年生の時に受講した都市論の授業で1990年の釜ヶ崎暴動を見た時から気になっていた街であり、大阪に帰ってきて、アルコール依存症治療専門のクリニックに通院するとともに、そこのデイケアを受けていたとき、昼休みに初めて釜ヶ崎に足を踏み入れて露店で向精神薬を売っていたのに驚くと同時にそれを買うためにしょっちゅう通うことになる。そのおかげでクリニックを追放・出禁になるのだが・・・。その後、しばらく足が遠のいていたが、釜ヶ崎の近くにあるココルームというカフェ&ゲストハウスが主催する釜ヶ崎芸術大学の講座で釜ヶ崎の生き字引みたいな人に案内されて、解説付きで街歩きを何度かすることになった。薬目的では見えなかった1泊500円のドヤや、究極の1畳ワンルームマンション、覚せい剤中毒者が窓から飛び降りないように全階の窓に金網が貼っているマンション、あちこちに存在する民泊、2階建ての建物の上に無理やり3階を作ってしまった建物など、金持ちのための建築設計をしていては出会えなかった建物が密集していて、非常に興味深かった。
釜ヶ崎から通りを渡って新今宮に行く。新今宮での目的は、2019年5月28日に起工式が行われ、2022年4月開業を目指して建設が進められている星野リゾートの「OMO7 大阪新今宮」の建設現場を見ることである。大阪の再開発関連のブログの記事では杭基礎が打たれ、捨てコンが打設されている写真が掲載されていたが、現場に行ってみると高い目隠しフェンスで囲まれていて現場の進捗状態を見ることができなかった。新今宮駅のホームからはよく見えるそうだが、そこまでしてみたいとは思わない。まあ、もう少ししたら躯体が上がってくるだろう。新今宮から南海線に沿って南海難波駅方面に向かう。
ここでの目的も、ブログに出てたヤマダ電機横の平面駐車場の現状を確認することである。今日見た範囲では北川半分の駐車場が閉鎖されていて、一部アスファルトが剥がされていた。何か大型案件のプロジェクトが始動しているのかもしれない。
なんばパークスの北側の通りからオタロードを巡って黒門市場へ向かった。日本橋オタロードは西の秋葉原と言われる大阪オタクの聖地である。アニメ関係の商品を販売している店が多く、ゲームやパソコン関連のお店、メイドカフェも多い。オタロードで恒例となっているイベントが「日本橋ストリートフェスタ」で、毎年3月頃に開催されていて、その日は堺筋も歩行者天国になる。訪れた人は好きなアニメのキャラクターのコスプレをして、写真を撮ったり日本橋の街を練り歩いたりするらしいが、まだ行ったことがない。オタロードも黒門市場も早朝なので開いている店はコンビニくらいで雰囲気を味わうことなく松屋町筋に出た。
ここから自宅へ戻るとすると、千日前通りから鶴橋を経るのが近道だが、それでは味気ないので空堀商店街へ向かった。空堀商店街は万城目学の小説「プリンセス・トヨトミ」の舞台になったところで、先日、原作を読んだばかりなので、急な坂道ではあるが、あちこち見ながら自転車を押して歩いて巡った。原作において辰野金吾の辰野建築がしばしば話題になり、「長浜ビル」や「大阪国議事堂」も辰野建築ではないかと言及されるが、もちろんそれはフィクションである。そんなものはない。しかし、建築をやっていた人間としては辰野建築が謎解きの鍵になっているので楽しく読めた。豊臣の末裔とか大阪国というワードが大阪人を熱くする。空堀商店街でチェックしておきたかったのはスパイスカレーで有名な「旧ヤム邸」の場所を確認することだった。大阪は、一説には日本一カレー屋が多いとも言われているこの激戦区らしい。旧ヤム邸は多くのカレーファンから圧倒的な支持を得ている。しかし、早朝のため、大半の店のシャッターが下りている状態なので結局確認することはできなかった。あとは帰るだけである。
自宅に帰ってきたのは8時過ぎだった。ちょっと一服して、観葉植物群に水遣りしてると腐れ縁のYから電話がかってきて、買い物に行って欲しいらしい。私も今日のワインの「SIEMPRE」を仕入れないといけない。買い物から帰ってくるとYが合鍵で私の部屋に来ていた。11時にヘルパーさんが来るので、それまで喋っていた。
ヘルパーさんが来るのは11時だが、その前に先日、ブックオフオンラインで注文しておいた本とCDが届いた。本はフィリップ・K・ディックの文庫本4冊。CDはSPKの「Auto Da Fe」である。SPKは1978年に精神病院の看護人グレアム・レベルと患者のニール・ヒルによってオーストラリアのシドニーで結成された音楽グループで、初期のノイズ・インダストリアル音楽に多大な影響を与えた。グループ名はドイツのハイデルベルク大学に存在したSozialistisches Patientenkollektiv(「社会主義患者集団」)に由来するが、「Information Overload Unit」ではSystem Planning Korporation、グループ解散後に発売された初期シングル集である「Auto Da Fe」ではSePpuKuと表記されていることから、言葉遊びという一面も見られる。一般的にはSPKという略称が用いられた。実はこのCD、CDが生まれる前のレコードの時代に函館のレコード屋で買ったものである。よくも函館でインダストリアルのレコードが手に入ったものだと今でも不思議に思う。
午後からはカール・マルクスの未来社会論の勉強会の後、15時から「SIEMPRE」を飲みながら読書をしていると見事に撃沈。


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