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チベット青年会議

2001年10月25日。この日も、いつもと変わらずMOON LIGHT CAFEにチャイを飲みに行こうとJogibara Roadを歩いていくと、バスターミナルのところで大学生らしきチベット人の青年たちが固まって何かアジ演説をおこなっていた。
興味があったので、しばらくその様子を見ていると、どうやらデリー大学のチベット青年会議のメンバー達で、TIPAで何かイベントをやると言っているのがわかった。大きなパネルに写真を何枚も貼り付け展示している。写真はデリーの中国大使館前でのハンガーストライキやデモなどの写真ばかり選抜いて貼ってあるのだろう。
「我々はチベットの自由と民主のためにこれだけ活動しているんだ!!!」
みていると、彼らのそんな気概が伝わってくる。
ふと見上げてみると、Tシャツにジーンズの今風なチベット人の女の子が箱を持ってきて、
「ドネーション、プリーズ、サー」
というではないか。と言うことは、これは資金稼ぎのパフォーマンスなのかなと、訝しげに思っていながらも、そっと100ルピー札を入れてやった。チベット青年会議には頑張ってもらいたいと言う私の気持ちからの100ルピーである。たかが300円だ。
これが、私と、チベット青年会議との始めての邂逅である。
チベット青年会議は発足時からチベット人の政治運動を率いる立場を担わされていた。
そもそもチベット青年会議は、チベット独立闘争のために4人の青年によって結成されたものである。その全員が上流階級の出で、その大半がインドで最高の英国式学校で教育も受けていた。それだけにチベット亡命政府(或いは遡ってラサ決起以前のチベット政府)の古いしきたりや政治方針に対して批判的であった。
1970年10月7日。コーニアム邸のそとでは300人ばかり若いチベット人は小旗のテーブルについた。彼らの後ろにはチベットの巨大な地図が掲げられていた。国歌斉唱が終わると、2人の専任教師(リン・チンポチェとチィチャン・リンポチェ)と内閣を傍らにおいてダライラマが立ち上がり、開会演説を行った。その後、討議は延々と続く、
「中国がああいう形でチベットに入ってくることがどうしてできたのか?」
「どうしてチベット軍は見事な戦いを見せることができなかったのか?」
「チャムド陥落の真相は?」
青年たちはそのように内閣閣僚につめより、さらに、現行政府における身贔屓主義の基金の濫用問題などを突っ込むなど、立場を超え、熱気をはらんだ議論がなされた。
この会議の途中で、公式にチベット青年会議が発足した。当時の議長はロディ・ギャリ。
現在、チベット青年会議は13,000名あまりのメンバーを有し世界各地に65ヶ所の支部を持つ亡命チベット人の組織で、以前より外部からは血の気の多い急進派のグループであると言われてきた。彼らの求めるところは、チベットの完全独立であり、それと同時にチベットの政治と宗教の指導者であるダライラマの指導に服することをはっきりと表明している。これに対してダライラマは中庸の道を主張しており、この見地からみると、実際にはチベット亡命政府=ダライラマは独立を放棄しているのだが・・・
・5項目の平和案

1.チベット全土を平和地帯とすること
2.民族としてのチベット人の存在を危うくする中国人の大量移住政策の放棄
3.チベット人の基本的人権と民主主義自由の尊重
4.チベットの環境の回復と保護。中国がチベットを核兵器製造及び核廃棄物処分の場所として使用することの禁止
5.将来のチベットの地位、並びにチベット人と中国人の関係についての真摯な交渉の開始


・ストラスブール提案
http://www.dalailamajapanese.com/messages/tibet/strasbourg-speech-2001

チベット人の中にも、ダライラマの平和的対話路線に物足りなさを感じている者も多いことだろう。特に青年たちは政治的意識が芽生える頃なので過激な行動に移りやすい、
そのため人々は、チベット青年会議がチベット独立を引き続き堅持すると同時にどんなことがあってもダライラマについていくと表明するのは矛盾ではないか、と疑問を投げかけている。これに対して彼らは、民主制度下にあってはさまざまな見方が出現してよいのだと主張するだけでなく、またさまざまな場において繰り返し、けっしてダライラマに反対する意志はないことを説明している。亡命政府のダワ・ツェリン氏(※亡命政府情報・国際関係省の中国部主任・・・当時)は、
「ダライラマが指導するチベット亡命政府もひとつの観点であり、青年会議ももちろん彼らの観点を堅持するでしょう。しかし数年前、彼らがダライラマに激しく対立した時でも投票の結果、60~70%以上の人々が法王を支持しました。チベット青年会議が独立の追求をチベット人の譲ることのできない権利であると考えているのはわかっています。亡命チベット社会の内部には異なる意見と論争がありますが、これは民主社会ではよくあることで、なんら不思議なことではありません」
と述べ、亡命チベット人社会は民主的で自由であり、個人も団体も自らの考えを持てると述べている。いまのところチベット青年会議の動きを静観しているようだ。しかしながら彼らの行動はダライラマが主張している対話での問題解決とは異なり、ハンガーストライキや、時には焼身自殺にまでエスカレートし、過激に中国政府に抗議している。その例は1998年4月28日に起こったハンガーストライキと焼身自殺である。
1998年4月28日の早朝6時、インドの首都ニューデリーの中心部にあるジャンタル・マンタルという小さな公園に、突然、数100人のインド人警官が押しかけた。ジャンタル・マンタルとは数100年の歴史をもつある家の名であり、そこはある時期、観測所であった。むかし時計がなかったころ、皇帝や人々はこの家の中の器具と太陽光がさす具合によって何時か決めたのだった。その後、この旧い家を取り囲むように小さな公園ができ、この公園は反体制派や在野の政治家たちが演説や集会をする場所となったのである。インドは民主国家であるが、あの日、あれほどに多くの警官が出動し“人命救助”という大義名分のもとで、チベット人の表現と抗議の権利行動を阻んだ。というのも、この公園内でチベット青年会議が組織した亡命チベット人によるハンガーストライキがすでに49日目になっていたからであった。
警官たちが殴ったり蹴ったりしながらそれを阻止しようとしたチベット青年会議のメンバーやボランティアたちを押さえつけ、残る三名のハンスト参加者をベッドごと車に放りこんだ時、突然燃え盛る火の塊が群集の中へ転がり込んだ。一人のチベット人が悲しみと憤りのあまり焼身自殺を図ったのである。
彼らにこうした行動をとらせるようになった原因は、1977年3月20日の朝から開始されたハンガーストライキが、開始して何日もたたないうちに世界中のメディアが1959年のダライラマのインド亡命のときと同じくらいの取材攻勢を受けることになり、離散チベット人達を結びつける結果となったからである。
これ以降、テンパ・ツェリンの指導により、チベット青年会議はよりいっそう武装闘争、時にはテロリズムを採用してもいいような路線に進んでいくことになる。ある情報によると、チベット青年会議のメンバーはインド各地のTCVを訪れ、卒業生をインド国境部隊(その前身はエスタブリッシュメント22)に送り込んでいるらしいとの情報もある。
この事件の後、11月に行われた中国民主活動家のメンバーと亡命チベット人たちとの対話の場-ダラムサラの人々の本音-のなかで、もしダライラマが中国政府との平和的話し合いに成功してチベットが自治を獲得するなら、故郷に帰って改めて中国国民の一人として生きていかれることを望むかという質問に対して、中国の管轄下にあろうとなかろうと自分の故郷に帰りたいと言う者もいれば、他の国に亡命し、無念の思いを抱いてため息をつきながら一生さすらい続けるという者もいる中でヤンキ・テンカル(女性、チベット青年会議幹事長・・・当時)は
「この問題は具体的な統計数字では表わせません。例えば、一部の国務大臣たちは法王の“中庸の道”に従って、人々の間ではそれに忠実であるようにすすめていますが、しかし彼らも内心ではおそらくチベットの独立を支持しているでしょう」
と述べている。あくまでも独立固持である。さらに、
「チベット亡命政府が独立を放棄するなら、私たちは当然がっかりするでしょう。その時には会議を召集して決定を出すしかありません。どんな決定かは今のところ予測もつきません。私たちは青年会議に入会した第一日目にこう誓いました;「一、すべてのことにおいてダライラマ法王に従うこと。 二、チベット民族の独立のためにすすんで生命を捧げること」 法王が中国との話し合いに成功されたら、わたしたちはもちろん受け入れます。でもそうなると第二条の誓いに背くことになるので、そうなれば青年会議は解散せざるをえなくなるでしょう。そうすればこうした誓いに縛られることもないからです」
そして、
「必要なときが来ればわたしたちも暴力に訴えることでしょう」
2004年4月。チベット青年会議の3名の若者が国連本部の外でチベット人によるハンガーストライキ決行を決めた。ハンガーストライキの最初の日から、チベット人や通行人は団結と支持の表明として、絶えず彼らの所を訪れている。NGOの人権擁護連合は、ハンガーストライキの場所を訪れ、心配と希望を表した。さらに多くの著名な人物が真の支持を持ってハンガーストライカーたちのもとを訪れている。こうして、チベット青年会議は国連ビルの中にある人権問題関係の高官のオフィスを訪れることができた。
ハンガーストライキに対する支持と団結の証として、ニューヨークとニュージャージーのチベット青年会議は、国連本部の前で大集会を組織した。そこでは数百人以上のチベット人が集まり、反中国スローガンを叫んでいる。集会は、ケルサン・プンツォック、中央チベット青年会議の集会に対する演説に続き、クンガ・シンリ-、RTYCニューヨーク、ニュージャージー議長の紹介演説により始まった。ケルサン・プンツォックの演説は、過去のハンガーストライキの歴史について特別に言及をし、自由獲得のための闘争におけるその重要性に焦点を当てた。さらにチベットにおける人権の悪化状況と全てのチベット人がチベット独立運動闘争のためにもっと大きな責任を負うべき必要性に付いても述べた。3人のハンガーストライカーは、チベット青年会議による無期限ハンガーストライキに自らの貴い命を投げ打って、チベット問題を提起している。
後に国連ビルの外側で、巨大なそして輝かしいチベットの国旗が、小さなチベットとアメリカの国旗を持った何百ものチベット人のデモ参加者らによって囲まれた。そして大声でスローガンを叫ぶ。
「ダライラマ法王のご長寿、チベット人のためのチベット、中国のチベット開放、パンチェンラマの釈放、トゥルク・デレクの処刑の中止、チベット人政治犯全ての釈放、国連よ、立ち上がれ!」

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