9.代々木ゼミナール造形学校建築科夏期講習
2年目の浪人時代の夏休み、毎週通っていた河合塾美術研究所名古屋校建築コースの夏期講習に参加するのに加えて、東京の代々木ゼミナール造形学校の建築科の夏期講習にも参加することになった。泊まるところは、当初、1浪して駒沢大学に入っていた高校時代の友人のシコ中が下宿していた横浜の弘明寺にある親戚の家だったが、そのうち、大塚で浪人していた同級生(名前を忘れてしまった)のアパートに移ることになった。
弘明寺に泊まっていたときは、弘明寺駅から京浜急行で横浜駅まで行き、横浜から渋谷まで東急東横線、渋谷から代々木は山手線と、電車を乗り継いで行くのだが、代々木駅を降りて校舎へ向かう途中、明かずの踏切で有名な南新宿駅手前の小田急線の「新宿2号踏切」を超えなければならない。目の前を何本もの電車が通り過ぎるのだが、踏切は一向に明く気配がない。そのうち、何人もが遮断機を無視して渡っていった。
「開かずの踏切」に関しては、2019年のYahoo!ニュースでも取り上げられていたが、2019年にテレビ局が最も関心を抱いていた鉄道の問題は踏切だったそうである。車との衝突などで脱線の事故の原因となっているので、早急に解決が求められるが、東京のように鉄道網や道路網が過密な街の場合、土地の余裕などなく、なかなか難しいのかもしれない。ちなみに、開かずの踏切の数は、2位の大阪府が96カ所なのに対して、1位の東京都は245カ所と46パーセントを占めている。
ところで、代々木ゼミナール造形学校の建築科の夏期講習の前半の立体構成や鉛筆デッサンは真面目に通ったものの、途中から行かなくなってしまった。と言うのも、大塚の部屋に、高校の同級生の悪ガキ&落ちこぼれ組が集まって、盛り上がってしまったからである。
事の起こりは、せっかく久しぶりに集まったので、宴会でもしようといことになったのだが、盛り上がるには役者が足りない。高校3年生の時、一緒にやっていた「造反有理」というパンクバンドのヴォーカルの志村がいないのだ。ヤツは浪人ができなかったようで、現役で亜細亜大学に入って、武蔵境に住んでいた。そこで、「ヤツを呼び出せ!!!」ということで、何度も電話してみるのだが、全然繋がらない。仕方がないので、悪乗りして、みんな爆笑を堪えながらヤツの留守番電話にThe Comes の「Wa-Ka-Me」という曲を吹き込んだ。The Comesは、日本のハードコアを語るのに絶対に外せないバンドのひとつで、「Wa-Ka-Me」は、性急なリズムにメタリックなギターのなか、女性ヴォーカルのチトセが「股間にワカメが!」と絶叫する。
そんな馬鹿なノリで、誰が言いだしたのか、渋谷から六本木まで歩いていこうということになった。決行するのは、私とシコ中と、元相撲部で、立教大学に入ったものの、密かに早稲田を受けなおすために受験勉強中のサモンの3人だった。こうして3人は、ノリノリで大塚から渋谷まで山手線に乗り、首都高3号渋谷線の下の六本木通りを、六本木目指して歩き始めた。途中、青山トンネルを抜け、大学入学後、何度も来ることになる西麻布の霞町の交差点を過ぎ、テレビ朝日(まだ六本木ヒルズは建っていない)を横目に、六本木の交差点までやってきた。
六本木まで来た悪ノリ3人組は、これもまた誰が言ったのか、「六本木といえばアマンドだろう」と、アマンドに入って、私はワインにしたものの、あとの2人は形を大事にしたのか、レモンティーとチーズケーキを注文した。ひとしきり、アマンドで昔話に花を咲かせたあと、「先に出ているから」と、サモンを残して私とシコ中は外に出たのだが、いくら待ってもサモンが出てくる様子がない。しかも、我々はまだ会計を済ましていない。2人は顔を合わせて、「もしかして、我々が先に会計を済ましたと思って、サモンは既に店から出たのでは?」と言い合った。それならそれで、我々はアマンドで食い逃げしたことになる。ちょっと楽しくなってきて、アマンドから30mほど逃げたところで振り返ってみると、サモンが心配そうに出てきた。「いや~~~わりい~わりい~」。サモンに聞けば、ちゃんと会計は済ませたそうである。私はちょっとした安心感と、「アマンドで食い逃げする」という最高のネタを逃した残念さが相混じった気持ちで、これからどうするか聞いてみた。その時、誰ともなく、「せっかくここまで来たのだから、もう少し歩いてみよう」ということになって、霞ヶ関方面へ向けて歩き出した。
霞ヶ関の官庁街に来る途中、電話ボックスや歩道橋に張り巡らされたピンクチラシを文部省(現:文部科学省)の掲示板に貼りまくって、我々は深夜の誰もいない日比谷公園へと入っていった。
ちなみに、ピンクチラシは、青少年にも容易に広告情報への接触機会を与えることから2000年代前半に法改正が行われるまで、風俗店やアダルトビデオの通信販売など、性風俗産業に関する勧誘チラシのことで、名刺サイズの小型のものは主に電話ボックス内に掲示され、内部が見えないほど多数のチラシが貼られる事例もある。現在、各地方自治体の迷惑防止条例ではピンクチラシを「性的好奇心をそそる衣服を脱いだ人の姿態の写真や人の性的好奇心に応じて人に接する役務の提供を表す文言がある絵や電話番号その他の連絡先を掲載したビラ、パンフレットその他の物品」と定義して規制対象とし、公共の場所での配布又は公衆の用に供する建築物内若しくは公衆の見やすい屋外の場所での掲示について刑事罰を規定している。一部自治体ではピンクチラシを公共の場所等での配布等目的で所持することにも刑事罰の対象としている。
時刻は0時を回っている。帰りの電車もなく、何の目的もなく日比谷公園をうろついていた我々は、「日比谷公園といえば野音(野外音楽堂)だよな~~~どこ?どこ?」と元パンクスのノリでキョロキョロしながら歩いていたら、警官に呼び止められた。話を聞くと機動隊らしい。なんで、深夜の日比谷公園を巡回しているかといえば、ノゾキの取り締まりらしかった。季節は夏である。野外でしたくなるカップルも多いのだろう。
帰りの電車も終わってしまい、行き場を失った我々は、とりあえず、お濠端を歩いて、桜田門、警視庁本部、最高裁判所を見学しながら、半蔵門で新宿通りへ入った。誰もが地図など持っておらず、今のようにGoogleマップなどない時代なので、全ては感である。
なんとなく、こっちで良いだろうとの感のもと、新宿通りに沿って歩いて、四ツ谷を越え、いつの間にか新宿まで来てしまった。時間は深夜2時から3時の間だったと思う。そこは、さすが新宿で、まだまだネオンが光り輝いていた。歌舞伎町を突っ切ったかどうか記憶にないが、新宿までくれば、あとは山手線沿いに歩けば池袋、大塚まで帰れると思って、最後の元気を振り絞って歩き続けた。
今では韓流ショップや、夜になると外国系のたちんぼがウロウロしている新大久保を抜け、遠くにサンシャイン60が見えてくると、ゴールの近さを実感した。最終的に大塚まで帰り着いたのは、朝の6時前だったと思う。本来であれば、この日から代々木ゼミナール造形学校の建築科の夏期講習の後半の建築写生があるのだが、あまりにもその日は疲れきっていたし、遅れて参加も、すでにやる気を失っていたので、結局、残りの夏期講習をサボってしまった。