「惜春、記憶の形見。」

 空と海はどこまでも蒼く、目を凝らしてもその境目は遠く見えない。水平線は最初から存在しないかのようにぼんやりと霞み、その向こう側にあるはずの世界は、夢の景色であるかのようにどこまでも曖昧だった。
 美しく晴れた空の下、私たちは海沿いを走るまっすぐな国道をゆっくりと進んでいた。
「ねえ。世界の終わりって、こんな日に、唐突に始まるんだって」
 横を流れていく遠い青を見つめていたら、県境を越えてからずっと無言だった彼女が、ぽつりと呟いた。横目で彼女の表情を窺うと、無機質な横顔が見える。努めて私の方を見ようとしないのは、ハンドルを握っているから、というだけではない。
 彼女は、この風景の中に違うものを見ていた。そしてそれは、私も同じだった。
 なぜなら私たちは、この世界が一度壊れる様を、この目でつぶさに見てきたのだから。
「そうなんだ」
 それ以上の言葉を、私は持っていなかった。それ以上に、返せる言葉を持っていなかった。
「ところで」
 私の言葉が続かない事を特に気にするでなく、彼女は続けた。

「どうして今日、ここに来ようと思ったの」

 やはり、こちらを向かずに問いかけてくる。しかし、その横顔からは緊張が伝わってきた。
 そういえば言ってなかったっけ。でも、正直理由はなかった。衝動的に、来なければ、と思ったとしか言いようがなくて。
 けれど、その切っ掛けは。あまりにあり得なさすぎて、けれども実際にこの身にあったこと、とも言えなくもなくて。 
「今から話すことは、独り言だから」
 うまく説明できる自信がなくて、そう前置いて言葉を続ける。
「夢を、見たの」
 昨日の夜見た不思議な夢。夢か、現か、わからないけれど。
 そっと彼女の横顔を覗き見る。少し緊張したままの横顔に励まされ、私は夢の記憶を辿り始めた。


 最初に聞こえてきたのは、轟音。続いて全身を揺さぶる衝撃。さらに、遠くから何かが迫ってくる。少しずつ、でも確かに大きな音が。圧倒的な力が
「……。……だ、……いそ……にげ……!」
 誰かの声が重なる。いくつもの叫び声が聞こえる。でも、間に合わない。私はそれがもう遅いことを知っていた。叫び声よりも大きな轟音が迫ってくる。次の瞬間、全ての視界は黒い大きな何かに呑み込まれ……
 自分の声にならない叫びに驚き、飛び上がる勢いで身を起こした。自分の体を掻き抱き、ここに在ることを確かめる。ああ、夢だ。しかし、身体中にまとわりつく嫌な感覚。……夢? そう、夢だ。それにしてもなんという悪夢だ。
 全身がじっとりと汗で湿り、酷く気持ち悪い。まずはシャワーを浴びてから着替えてすっきりしよう、と立ち上がろうとして、周囲の様子がおかしいことに気がついた。
 まわりを見回しても、何もない。あたり一面が瓦礫の山だった。
 どうして、確かに昨日はちゃんとベッドで寝たはず。それがなんで、こんな何もないところに。というか、地面で倒れてたの、私? これはおかしい。明らかに。これではまるで……

「あ、起きたの? ねえ、あなたは?」

 背後から突然、明るい声に襲われた。飛び上がらんばかりに驚いて声の方に振り向けば、一人の少女が立っていた。
「あなた、誰? 一人? どうしてここに来たの? ……あ、本当に久しぶりね」
 少女は無邪気に微笑みながらも、矢継ぎ早に質問をぶつけてくる。対する私は状況が転がりすぎて頭の処理が追いつかず「あ、え……」と意味を成さない言葉しか出てこない。というか、この子いま、久しぶり、と言った?
 こんな少女と会ったことがあっただろうか。しかし、彼女の無邪気な笑顔は、どこか既視感を覚える。なぜだろう。
 奇妙な感覚に戸惑うけれど、誰なのかは思い出せない。どうしてだろう、これでも物覚えはいいはずなのに。
「ふふ。ねぇ、少し歩かない?」
 混乱したままの私を他所に、少女は散歩に誘ってきた。随分とマイペースな娘だな。この状況で、散歩? 改めて周囲を見回しても、手がかりが何もない。状況が全くわからない、けれど。

 この子をひとりにしては、いけない。

 突如、そんな意識に支配される。誘われるままに歩き出した。


「ここは商店街のあったところ、向こうは役所と公民館、あっちは……」
 彼女に導かれるまま二人並んで街を歩いて行くと、さっきまであやふやだったはずの景色がはっきりと見えてくる。歩きながら、彼女が事細かに案内してくれているけれど、私にはさっぱりわからない。
 なにせ、周囲にあるのは瓦礫の山と、辛うじて残っているという程度の建物ばかり。
 一階部分が大きくえぐれている民家と思しきものや、骨組みや基礎を残して失くなっている建物。コンクリートの建物は辛うじて形を留めてはいるけれど、看板や文字、建物の名前を示すものは何も残っていない。一階部分が不自然な吹き抜けになっていたり、出入り口が土砂で埋まって2階が入り口のようになっていたり。しかしそれらはまだいい方で、もはや原型を留めていないものがたくさんあった。
 理由は、明白である。ここにくる前に私にまとわりついていた、あの出来事のせいだ。
「ここはそれでも残っているほう。もっと海側は、何もないの」
 道路のアスファルトはあちこちひび割れ、流されたタイルや煉瓦が辺りに散乱している。不自然な場所に土砂が山積みになっているかと思えば、何もない道路のど真ん中に、漁船が鎮座している。
 まさに、廃墟群だった。かつて誰かが生活していたという痕跡が辛うじて残ってはいるものの、今ここで生きている人の気配は、全く存在しない。それらは全て、ここにあったはずの物と共に消えたのだ。文字通り、何も残らずに。
 頭痛がする。何かが警鐘を鳴らすように、頭が痛む。
 彼女の歌うような声が、少しだけ軽くなった。合わせて、少しずつだけど人の姿が見え始める。忙しなく行き交う制服姿の人に混じって、元の住人と思しき人たちが見え隠れしていた。
「ここはなんだか、賑やかね」
 私たちはどうやら、海から山に向かって歩いてきたらしい。あたり一面の廃墟群から、建物は壊れていても人が居て生活している気配を帯びた街並みに、少しずつ変わってきていた。
 まだ崩れたままだったり直っていないものも多いけれど、それでも人々が生きている、という空気が満ちている。
「たとえ色々失ってもなお、諦めてない人はたくさんいる。命ある限り、またここで起き上がろうとしている」
 その言葉の通り、行き交う人々は皆笑顔だった。彼らはここに再び根を下ろし、ここで再び生きようとしていた。諦めの空気は感じられない。それどころかむしろ、力強くさえある。
 知らず、涙が出る。彼らはこんなにも笑顔なのに。少女も一緒になって笑っているのに。どうして、私だけこんなにも、苦しいのだろう。
「どうしてみんな、笑っていられるの? あんな事があって、全部なくなって、みんな流されて……こんな、街なのに……」
「違うわ。こんな街だからこそ、かな」
 思わず溢れ出たつぶやくような私の問いかけに、彼女はいとも簡単に答えを出した。そんなこと、と思って表情を窺うけれど、憂いや苦しみの表情は見られなかった。
「ここは綺麗な街だった。田舎の町、なんて言われていたけれど、それでもここに住む人々は間違いなく生きていた。ここにはここの日常があったし、それぞれの人生が確かに息づいていた」
 彼女は、歩みを止めない。笑顔の人々の間を、するすると歩いていく。私はただ、ついていくことしか出来なかった。
「だから、自分が生まれたこの街を、育ててくれたこの街を、そしてこんな状況でさえ生き延びさせてくれたこの街を、再び自分たちで生き返らせようとしているの」
 その言葉には、迷いがなかった。ただひたすらに、そうであることを信じている純粋な強さを、私に訴えてくる。
 そしてそれは間違いなく、今ここに在る現実だった。私たちが目にしている風景が、是非もなく物語っていた。
「確かに、全てを諦めることも一つの答えかもしれない。でもね、『私たち』の強いところは、未来を願えること。どんな時でも希望を忘れないこと。たとえどんな状況でも、生きている限り、自分たちでここを生き返らせることができる。それぞれの思いが。大切な思い出が。自分たちが夢見た未来が、この先には必ずあるのだから」
 彼女が足を止めて、私に振り向いた。
「喪われたものはもう戻らない。けれど、残された私たちは生きていかなければならない。彼らには、明日へと続く今日がある。だから、笑って明日を迎えるの」
 私を通して彼らを見る彼女の表情は、とても穏やかな微笑みだった。
 頭痛が、ひどい。
 何か、大切なことを、忘れている気がする。
 私は足が竦んでしまう。まるでその笑みに射抜かれたかのように、動けない。
 彼女は私に近づいてくると、そっと手を取った。
「大丈夫。こわくない、こわくない」
 まるで子どもに語りかけるように、優しく温かい声。そのまま私の手を引いて、再び歩き出した。

 人の行き交う街を通り過ぎて、少しだけ高台になっている場所まで来た。この場所はどこか、憶えがある気がする。なぜだろう、思い出せない。
「綺麗な場所ね」
 ただ、何かを言わなければいけない気がして、けれど気の利いた言葉など何ひとつ思い浮かばず、そんな陳腐な一言しか出てこなかった。
 彼女は私を見るとただ静かに微笑み、遠くを見つめた。開けた視界の向こう側、さっき通ってきた道が一望できた。私たちの歩いてきた道が、全て。
 私たちは手を取り合ったまま、その風景をただ眺めていた。街は静かに佇み、しかし確かに生き返ろうとしている鼓動を響かせている。
 どれだけそうしていたのか、気がつけば水平線の端、夕日が沈みかけていた。眼下の全てを茜色に染め上げてから、静かに一日の終わりを告げて去っていく。
 東の空には気の早い月も顔を出していた。まだ生まれてから間もないであろう、細い月。まるで、誰かが落とした宝石の欠片のように。そしてその月を彩るが如く、追いかけるようにして無数の星が広がっていく。宝石の欠片を載せる天鵞絨が、広がっていく。
「綺麗……こんな星空見た事ないわ」
「あなたの住んでいる街では、星は見えないの?」
「少しは見えるけどね。街明かりがとても明るくて、こんなにはっきりと、しかもたくさんは見えないの」
 そうなんだ、寂しい場所ね、と言う彼女に、私は曖昧に笑うしかない。私の住んでいるところは、寂しい場所なのか。確かに、否定できる言葉を見つけられなかった。
 夜が来た。1日が終わろうとしている。帰らなきゃ、と唐突に思い至った。
「帰るの?」
 何も言っていないのに、彼女は私にそう問いかける。そう、帰らなければ。あれ、そういえば。
「あなたは、」
「嫌。誰、なんて、訊かないで」
 是非もない、寂しそうな声が私の声を遮る。どうして、と続けようとしたら、急に視界がぼやけてきた。
「ごめんね、もう一度だけ、会いたかったんだ」
 さっきまでとは違い、はっきりとした声がする。最初に声を掛けてきた幼い子どものものじゃない。あれ、この、声は。
「ありがとう。ダメ元で引っぱってみたけど、うまくいってよかった」
 知ってる、忘れもしない。思い出すこともない、大切な。
 だめ、何か、言わなきゃ。けれど、視界とともに体の自由もなくなっていく。
「もうすぐ、ここは終わるから。君は帰らなきゃ、だめ。ここにいちゃ、だめだよ」
 急すぎる。さっきまで一緒に、隣にいたのに。ぼやけた視界は白く染まり、真綿に包まれ自分の輪郭が溶けていくような。お願い、待って。
「もうじき、花が咲く。そしたら、ここでの事は全て忘れる。いつまでも、囚われていてはいけない。君のその足は、前に進むためにあるのだから」
 嫌だ、忘れない。忘れるわけはない。その声。私たちを呼ぶ、特徴的な語り口。
「けれど、もし赦してくれるのなら、覚えておいてね」
 引き留めたかったのに、引き留められなかったあの日。決して思い出すことがなかったあの日。
「彼らは、私たちは、諦めない。きっとまた、ここでみんなが笑いあえるという未来を」
 彼らは、生きようとしている。この土地でなお、未来へと向けて。
「生きることに執着できるのが、人間の特権だからね。どんなときも生を諦めない。目の前の壁が大きくなればなるほど、その力は大きく強くなる。それが、彼らの持つ生きる力だから」
 ぼやけていた視界は、次第に白くなっていく。何かの光が、この世界を染め上げようとしていた。彼女の語っていた言葉が、明るくなっていく世界に重なる。
「いつか、みんながまた笑って過ごせるように。それが、私の、たった一つの願いだから」
 もう、それが彼女の声なのか、彼らの声なのか。しかし、その響きだけは、はっきりと伝わってくる。

 止まない雨はないし、明けない夜はない。
 日は沈んでもまた昇るし、星はずっと空にある。
 悲しみが覆い尽くしたこの町だって、いつまでもこのままじゃない。
 春告の風が吹き、新たな生命が芽吹く時、またこの場所は生き返るのだから。
 でも、せめて。
 こうして出逢ったことが、あなたのどこかに残るのなら。
 この街の記憶の欠片が。
 この街の形見が。
 どこかにふと、残っていてくれるのなら。
 それ以上の喜びは、ない。
 ねぇ、そうでしょう?
 ありがとう、さよなら、——。


「……それで、気がついたら朝だった」
 夢は、それでおしまい。そう言って独り言を終えた。
 途中からずっと、彼女の方を向くことはできなかった。窓の外を流れる蒼に、意識を集中させる。私自身、ひどい顔をしているだろうから。
「……そう」
 ハンドルを握る手がぶれないのはさすがだな、と思う。私ならこんな話聞かされたら、動揺して動けなくなるだろうに。
「もうじき着くよ。思ったより早かったね」
 見覚えのある場所が近づいてきた。手元のスマートフォンを握る手に、力が入る。
 駐車場に滑り込んだ車は、路面にがたがたと揺らされて、停まった。

 その場所で、私たちは何も言わずに遠くを見ていた。
 眼下の風景は、記憶のそれとは大きく変わっていた。広場に立てられた残された写真と比べるまでもない、跡形もなかった荒野は少しずつ整備されてはいるものの、かつての面影は見る影もなかった。
 何もかもを呑み込み、押し流す大きな塊。それが引き去ったあとに残ったのは荒野だけ。そこに、私と彼女は置いて行かれた。大切なものを忘れたと家に戻った友人は、引き去る波と一緒に消えてしまった。きっと私たち以外にも、そうやって運命が分かれた人々が、大勢いたのだろう。
 そうして放り出された私たちが住み慣れた場所を喪い、いつ終わるともわからない生活が始まってから数年。こうして少しずつ戻って来られる場所が広がり、再び通れるようになったこの道を走るたびに思う。
 あの日、海の彼方に消えた人々と私たちは、何が違ったのだろう。
 海と消えた友人に呼びかける。
 ねぇ、帰ってきたよ。あの日、一面の荒野だったここは、少しずつ、けれど確かに再び生まれ直してるよ。生きてるうちに戻れないと思っていた君の家だった場所にも、また入れるようになったよ。
 みんな諦めないで、新しい春を迎え続けてるよ。
 昨日出会った、幼い頃の友人に。あの日消えた、友人に。彼女たちがいるであろう、どこまでも遠い蒼原に、胸の裡で呼びかける。
 ただただ遠く、遠い。どこまでも綺麗すぎる蒼に、知らず涙が溢れてくる。
 風に揺られ、木々が手を振る。どこかから、風のざわめきとに混じって、笑い声が聞こえてくる。
『おかえりなさい』
 どこかから、そんな言葉が聞こえた。
 堪えきれずに声が漏れる。横に立つ彼女が、何も言わずに手を握ってくれる。その温もりと、夢の温もりが重なって、涙が溢れてきた。
 木々が手を振る真っ直ぐな道はまだ続く。私たちはそのまま、一緒にただ立ち続けた。




< あとがき >

 普段は書かないのですが、これについては少しだけ。
 この噺は、数年前に某所で書いたものを加筆修正したものです。
 あの日に見た風景と真っ暗な中歩いた道、そのあと何度か訪れた風景をもとに書きました。
 あれから13年経ったわけですが、私の中で決して消えることのない、思い出すことのない物のひとつとなっています。
 正直、当時も書いていいものかずっと迷っていたものです。
 ただあの日のことは、私の在り方を決定的に変えた出来事の一つ。自分なりに、記憶の形見を受け取った者として、形にしておかなければならない。そう決めて手入れしました。

 たとえどんな形であっても、あの日のことを決して忘れない、思い出さないために。
 これはそんな、記憶の形見分けです。

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