【ふたりしずか】 「素敵な春の散歩道。」
しずこころなく、はなのちるらむ。
旧き時代、春の日の桜の下で、とある歌人がそんなことを詠んだとか。花の舞い散る様は綺麗だけれど、どこか忙しなく感じるのは昔から変わらないことらしい。
しかし、だからこそ桜はここまで人に愛されるんだろうな。満開を少し過ぎた桜並木の下、そんなことを考える。ゆるやかな風に舞う花弁を目で追いながら、薄紅色に霞む空の隙間に見える蒼を探していたら
「難しい顔、していますね」
私の隣を静かに歩いていたはずの後輩が、数歩先で振り返っていた。
「そうかな」
どうやらいつの間にか、足を止めていたらしい。
「そうです」
「……そうかもね」
彼女の言う通り、そうだったかもしれない。せっかく彼女が誘ってくれたけれど、今一つ気乗りしていないのがばれてしまったか。
私の言葉に少しだけ驚いた顔をしつつも「素直ですね」と小さく笑う彼女に、ただ曖昧な笑みを返した。正直、答えを意識する前に言葉がこぼれ出た、というのが正しかったからだ。
満開を過ぎたとは言え、桜吹雪は十二分に楽しめるほどに花は残っている。平日の午後、町外れの公園は有名どころから外れているとはいえ、私たちの他にも歩いている人はそれなりに居た。ただ、みんな桜に気を取られ、まわりのことなどほぼ目には入っていない。私たちもまた、彼らにとっては風景の一部でしかないのだ。
「迷惑、でしたか」
ちょっとだけ迷うような表情で言葉を続ける彼女に、私は黙って首を振った。迷惑などということは決してない。ただ、このような場所に今自分がいることが、どうにも居心地が悪い。故に、どう返していいのかわからない。
「わたしはただ、先輩と一緒に来たかっただけなんですが、先輩は、」
「そんなこと、ないよ」
それでもどうにか、彼女の言葉を遮るように告げた。
嘘ではない。しかし、本当のことでもないけれど。
絶対に迷惑ではない。ただどうしても居心地が悪いのだということを、伝えてもいいものか迷う。
俯いていた彼女が顔を上げ、視線が交わった。しかし硬い笑顔の彼女の目は、私を見ていない。じわり、と重いものが胸に沈む。
「いいんです、先輩。これは、私のわがままですから」
震える声が、私を一緒に揺さぶる。何か言わなくては。でも、言葉が、続けられない。気持ちだけが焦り、体は全く動けない。
その時不意に、風が強く吹いた。それまで静かに舞い降りていた春の名残が、あたり一面に舞い上がる。
そして、私たちはお互いの姿を見失った。
「……え」
「先輩?」
風が流れ去った後、お互いの姿を取り戻す。と、気がついた時には、私は彼女の手をしっかりと握りしめていた。
「どうしたんですか」
「ご、ごめん」
本当に無意識だった。理由もわからず掴んでしまい、急に恥ずかしさが込み上げてくる。謝って手を離そうとしたら、逆にその手をしっかりと掴まれた。
「ちょっと」
「ダメです。離しません」
そう言って、そのまま腕を引かれる。数歩空いていた距離は、あっという間に詰められた。
「せっかく先輩から、手を握ってくれたんですから」
「だからって、近過ぎじゃない?」
いいんです、と嬉しそうに笑う。さっきまでの硬いそれではない、本当に嬉しそうなのが伝わってきた。急に変わった空気に戸惑いつつも、その柔らかな雰囲気に毒気を抜かれ、私も釣られて苦笑いが溢れた。
私の身体から強張りが抜けたことを察したのか、彼女の手が緩む。離すのかな、と思った矢先、するり、と指が絡み合う。
瞬間、熱が起こる。今度こそ何も言えずに、彼女の顔を見た。
柔らかな雰囲気はそのままに、しかし悪戯っぽく笑う目が、私を射抜く。その笑顔は、どこまでも甘い春の空気の下、ただただ綺麗だった。
「どこにも、行きませんよ」
彼女が小さく呟いた言葉の意味を測りかね、視線だけで問い返す。
「しっかりしているように見えて実は結構抜けてて、一人になりたいけれど孤独は苦手な、そんな可愛い先輩を、ひとりにできるわけがないじゃないですか」
心外だ。そんなふうに見られていたなんて。けれど同時に、よく見ているな、などと感心してしまった。
お花見という行為自体が好きではないけれど、一人でゆっくり眺めることは嫌いではない。でも、桜の樹に埋もれているとどこか怖くて、こんな私を理解してくれる誰かにいてほしい。それを彼女はわかっていたのだ。
「……なにそれ」
「言葉通りですよ。私にとっては、かわいい先輩です」
今度は素直に認めたくなくて、ついぶっきらぼうな言い方になってしまう。けれどそんな私の言葉もどこ吹く風。嬉しそうに指を動かす彼女にちょっとだけ意地悪したくなって、指が緩んだ隙に、そっと手を離した。
「あ」
不意打ちだったのだろう、気の抜けた声を出した彼女を置いて、歩き出す。
「……ありがとうね」
少しだけ離れてから、小さく呟いた。私を認めてくれて。けれど、素直にそれを返すのが悔しくて。聞かせてなんかあげないんだから。
背中を追いかけてくる気配がする。そして、何かがそっと髪に触れた。わずかであったのに、それが何かすぐにわかった。小さな温もりに、私の鼓動は少しだけ主張を増す。
「どうかした?」
「いいえ、花びらが髪に」
そう、と気にしていないふうを装い、再び歩き出す。すぐに離れた温もりを惜しいと思いつつも、それを素直に認めるのは何か違う気がして。
すると、後ろで小さくシャッターの音がした。振り返ると、彼女がスマートフォンをこちらに向けている。
「……撮った?」
「いいえ?」
悪戯っぽく笑う彼女は、明らかに嘘ですと目が語っている。
何食わぬ顔で行き過ぎようとするので、見せなさい、と言ってもするりと躱されてしまう。彼女はとても楽しそうに笑って、先に立って歩き出した。ついでとばかりに、私の手を捕まえて。
「ちょっと」
「離しませんよ」
彼女は歌うように言うと、今度は最初から、指をしっかりと絡めて握ってくる。決して離さない。そんな意志を感じさせるほど、しっかりと。
もとより、離すつもりもない。握った手から伝わる温度が、私にそれを教えてくれる。
「先輩、寄り道して帰りませんか?」
「今のこれは寄り道じゃないの?」
「歩いてたらおなかすきました」
「……まあ、いいけどね」
じゃあ行きましょう、と楽しそうな後輩に手を引かれ、歩き出す。柔らかな春の匂いに満ちた空気とは別に、ほのかな甘い香りが私を包んだ。温かなそれは、私を捉えて離さない。
ふと、何か呼ばれた気がして後ろを振り向いた。さっきまで私たちのいた場所に、うっすらと淡い影が残っている。
しかし、目の錯覚かと思う間もなく、風に溶けて消えた。
「どうかしましたか?」
「ううん、なんでもない」
気のせいだ、とは思うけれども。それは確かに、私の中から溶けて離れていったのだろう。
風が運んできたその残滓は、淡い桜の香りがした。
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