【ひとりしずかに】 10月。読むということ。
「趣味はなんですか」と問われて、貴方はどう答えるだろうか。
誰かに趣味を尋ねられた時に、私はいつもすぐに答えるのを躊躇ってしまう。というのも、私自身の趣味嗜好が一般的なそれとずれているから、ということを自覚しているからだ。
何も考えずに答えるなら「読書」と「旅」になるわけだが、そうすれば決まって返ってくる質問がある。まあ、相手はそれを会話の切っ掛けとしているから当然といえば当然なのだが。
そこで返ってくるものは「どんなものを読むか。好きな作家は」「どんな場所に行くの。おすすめの観光地は」など。無難といえば無難なもの。しかし、私にとっては答えづらいことこの上ない。
私にとって本を読むということは、趣味(好きなこと)である以上に、呼吸と同じく欠かせないものの一つである。もう一つの趣味と答えている旅ですら、その実これに付随するものでしかないからだ。
そして、好きな作家は、と訊かれてもそれを答えるのも躊躇われる。大学以前の自分ならば即答できただろうけれど、今の私ではそれはできない。というのも、決して多くはないものの本を読み重ねて来て考えたのは、私が好きなのは主に『文章そのもの』だからだ。
以前に『心の軋む音が聞こえる物語が好き』と書いたことがあるがまさにその通りで、文章のかたちや表現方法、突き詰めれば言葉遣いそのものに惹かれる。若干の語弊はあるが、書き手が誰であるかは関係ない。プロの作家先生だろうとアマチュアの物書きだろうと、素敵な文章を書く方はいらっしゃる。
その“素敵な文章を書く友人”との趣味語りをしたときに『好きな作家というよりも、正確に言うなら書く文章に惚れた』と言ったことがあるが、まさにそれである。文章とは物書きの個性が出てくるものであるので、その形が自分の嗜好にぴったり嵌れば、当然その作家先生や物書きさんを辿っていくことになる。
誤解のないように言っておけば、これは趣味について聞かれた時に答える『特定の作家先生を好きではない』という事とイコールにはならない。なぜなら、ここでは何度か御名前を出している村山由佳先生、この御方はこれからも生涯私淑し続ける作家先生である。いや本当に好きなんですよ、村山先生の書かれる文章が。
だが、その良さを語ったところで、会話の端にしようとするような人々に通じるわけがないのは自明の理である。相手の反応を見てどこまで話すかは常に考えてはいるものの、これまで友人以外にその話が通じたことは一度もない。ある意味当然のことではあるが。
そんなわけで、私の趣味は表向きは特に無し、ということになっている。気が向いた時に本を読み適当に散歩する程度、と答えるに留めている。それより先の話をしようにも、それを理解できる相手ではないことが大半だからだ。
そして『読むこと』と言えば、なにも小説という分野だけではない。私は基本的に『読む』という行為に該当することであれば、大抵のものは読む。小説、エッセイや論文、漫画、雑誌などなど、どんなものでも読む。基本的に印刷された紙の本が好きだが、今やメジャーである電子書籍でもそこまで抵抗はない。なぜなら文章を読むという行為は、先に述べた通り私を構成するそのものだからだ。
私自身の意識は、言葉に大きく依存している。本を読み、言葉を書き紡ぐ。旅に筋を見出し、文章へと形を変える。他の何を失っても、それだけは私自身の形そのものである、と言えるものだ。これはその証左に他ならない。たとえ三度の食事を抜いたとしても、毎日何かしらの文章を『読む』という行為はやめられない。おそらく死ぬまで、変わらないだろう。
さて、ここまでは趣味を聞かれたことにかこつけて私が本を読むことについて話したが、逆に『本を読ませる』という点に於いて、私は一つだけ声を大にして言いたいことがある。それは、特に子どもに『本を読め』と強制するのは良くないということだ。
そもそもなぜそんな事を言いたいのかという前置きだが、それは私が子どもの頃の経験に基づくものがある。故に全てに該当するとは決して言えない。それでも、本に触れ、読み、書き、関わる生き物としては、何をさておいても話しておきたいことだ。
子どものころ、私の家には純文学の撰集があった。母親のコレクションであったのだが、小学校に上がって漢字を覚え始めた頃から、これを読みなさいと言われるようになった。
今の私だったらそれこそ言われるまでもない。片端から順に読み進めながら、同時に気になったものを拾い読みしていくだろう。
しかし、さすがの私でも、当時から嵌り込むほど本を読むことが好きな子どもだったわけではない。確かに周りの子よりも(文字ばかりの)本を読むことに抵抗はなかったが、所詮はしがない何の秀でたところもない小学生である。自ら進んで読むとしても、読みやすそうな本や好みの物語を選んで読むのが関の山。そんな頃から純文学を読めるほど、興味が強かったわけではない。
だが我が家のルールでは、これを読まなければ読みたい本を買ってもらえなかった。ではしっかり読んだら読みたい本を間違いなく買ってもらえるのかといったらそうではない。
まず、その本についてのあらすじを聞かれる。そして感想をしっかり言わないと、すぐではなくても読み直しをさせられる。無事それをクリアしたとて、買ってもらいたい本の内容が母親のお眼鏡にかなわない本は当然ダメ。だったら自分でこっそり買えば、と言われるかもしれないが、それもできない。我が家にお小遣いというものはなく、必要なものは親に言って買ってもらわなければならなかった。祖父母から貰ったお年玉なども全て取り上げられ、子どもが自分でお金を持つ・使うことは許されなかったのだ。
自分で欲しいものは元より本を買うこともできず、読みたいもの、自分で選ぶものにも制限がある。ゲーム機なんかは当然無いし、玩具と言われるものもほとんど無かった。よくもまあこれで今の自分の趣味が育ったものだが、これは反面教師となったという例にあたるだろう。実際、大学に入って自分で選ぶことが当たり前になってからは、それまでに入手できなかった本やゲームやCDなど、色々なものを買い漁った……
とまあ、これ以上私の子どものころの話をすると筋が大幅にそれるのでここまでにして、本題である本の話、『本を読め』と強制するのは良くないということについてだ。ここからはまず、私が純文学を強制されたということに基づいて進める。
確かに過去の名作と言われる純文学は、あらゆる面に於いて大切な知識の財産になる。現代文学といわれる小説作品など、これを知っているか知らないかで楽しみの深さが大きく変わる。たとえばこの小説のこの部分については、この作品のこれが下地にあるな、とか気づけた時には違う方向で至福の感覚がある。
しかし、それは別に逆方向でも構わないのだ。先に現代文学を読み、作品中の表現やら引用やらで気になって、下地となっている作品を自分で探し出して読む。これもまた、一つの楽しみ方だ。むしろ、私はこの形を薦めたい。
私自身はそうは思わないのだが、本を読むという行為は一般的には、一日の貴重な時間を削る行為であることは否めない。
ただでさえ時間の流れが速いこの現代で、それについていこうとするのであれば、余暇時間というのは相当に限られるだろう。その僅かな時間を利用するのだから、下手な読み方をしてしまえば『時間の無駄』という印象のほうが強く残ってしまう。それではとても、もったいない。
故に、本を読む方法としてのお薦めは、まずは自分が気に入ったものをじっくりと楽しむこと。作品の内容や質は、先ずは問わない。重要なのは、自分が好きと思える事だけ。他には何も必要ない。
読むのに得手不得手は当然ある。焦ることはない。一日数ページだけでもいいし、はまり込んで一気に読んでしまってもいい。連作物ならそこから次の本を手にするもよし、気に入ったその一冊を何度も何度も繰り返し読むことだっていいだろう。
入り口はたった一冊でいい。その気に入った作品をじっくりと隅々まで楽しんでから、次を読む。その過程で、作中で気になったことがあれば、そこから枝葉を辿っていけばいい。
純文学が下地になっているものもあるし、他の現代文学や、漫画や学術論文につながることもある。作者がオリジナルで作り上げた、別の何かに通じることがあるかもしれない。
枝葉の先にはきっと、その本とは違う世界がそこにはあるし、ただ出会うだけでは見えなかったものが待っているのだ。
これは純文学に限らずどんな事にでも言えることであるが、最初から執拗に何かを薦める、というかほぼ強制のようになってしまうことや、あれは駄目、これじゃないと他者の手によって選別されてしまうのは、様々なものに触れることのできる機会の損失に繋がる。好き嫌いは各々個人のもので、他者の考えや手によって強制されるものではない。それらを強いることは、その入り口から将来手にすることができるであろう選択肢や財産を奪い取る重罪とまで、私は考えている。
本を読ませる(薦める)ことに視点を置いて書いたが、これは他の全てにも通じるものだ。せっかくの良いものも、薦め方によっては相手にとっての負荷にしかならず、ひいてはそれが害のあるもの、と捉えられかねない。そうなってしまってはその分野自体が悪いものとされてしまい、最悪修復不可能な傷となってしまう。なんと勿体ないことか。
好きなものほど自分の視点が強くなってしまうのは仕方がないといえばそうであるが、故に受ける側のことが見えなくなってしまう。ひとに物を言いつける方法、ではないけれども、何事も適度に、が肝要なのだ。
《 10月の終わりに 》
読書の秋ということで、今回は本に関わるお話でした。
基本的に読むことが好き。同じような趣味の方々ほど読んでいるわけではありませんが、気に入った作品を何度も読み返したり、出逢った本から枝葉を辿り、新しい物語を常に探しています。そして『心の軋む音が聞こえる物語』に出逢えた時はもう素敵な瞬間です。
おまけとして、前述の『趣味を訊かれた時に答える事がない私の好きな作家先生』を紹介してみようと思います。
まず一番に、私淑する村山由佳先生。友人の言を借りれば私の『教科書』でもある先生。
SF小説の分野では現時点で一番で、私の行動指針の一つを教えてくれた新井素子先生。
いつも、どこか一味違う物語を味わうことのできる桜庭一樹先生。
小説作品『では』なぜか、不思議な雰囲気を醸し出している千早茜先生。
思わぬ切っ掛けで出会ったけれど、どこか不思議な文章を書く李琴峰先生。
……とまあ、挙げていけばきりがないものです。それぞれの著作については、今後どこかで紹介していきたい。紹介コメントは完全に私見ですのであしからず。
さて、私事で色々滞っていますが、今後も書き続けることに変わりはありません。気が向いた時に、皆様の御目に留まれば恐縮です。
それではまた、別の物語で。