【夢と現の狭間に・別話】 「とある誰かの——。」
ステージにあふれる光。
周囲を取り囲む喧騒。
傍目に見ればとても華々しい舞台に立っているはずのは私は、どこまでも独りだった。
私には到底縁がないと思っていた都内の有名ホテル。そんなところで開かれたパーティーの会場内は、せわしなく人が行き交い、あちこちで会話の華が咲いている。それらは一見すれば華々しく優雅な宴の風景だが、その実、魑魅魍魎が集う集会場となっていた。
壇上での表彰と挨拶が終わって会場に放り出された私は、ここぞとばかりに突進してきて無遠慮にマイクとカメラを突きつけてくる輩の相手をしていた。こいつらは、ハイエナか。もしくはハゲタカか。誰かの益を横取りするスカベンジャー、ろくでもない。
「先生、今回の受賞本当におめでとうございます! このような大きな賞を貰って、今後の抱負を聞かせてください!」
「抱負、ですか。そうですね……私は、どんなヒトにも必ず、それぞれの物語があると思ってるんです。老若男女関係なく、どんなヒトでも必ず何かを持っている。生きているヒトがいて、それがなくならない限り、私は何かを書き続けていたい、そう思っています」
私の言葉に大げさに感心しながらメモを取る輩。しかし、私の言ったことを一分も理解していないに違いない。裏が透けて見えるほどの薄っぺらな笑みが、それを言葉以上に物語っている。
数々のうんざりするほどつまらない質問を捌きながら、私はそっと周囲を見渡した。出版社の人や仕事を通して知り合った顔もちらほらいるが、私が一番期待している人の姿は見当たらない。招待状は送っておいたのに、やはり来られなかったのだろうか。
今回のことを、私が一番に伝えたかった人。ここに立つそもそものきっかけをくれた人。何より、ここまで歩き続ける力をずっとわけてくれた、大切な人。
その人のことを想いながら、私は昔のことを思い返す。
書き始めたきっかけは些細なことだった。
好きな曲を聞いていたらある日、ふとひとつの世界を思いついてしまった。なんとなくそれをそのまま書いてみたら、偶然一つの大きな物語に成長した。ただ私の思うままに完成した作品を読んだ友人の勧めで新人賞に応募してしまったら、なんと大賞をとってしまった。
偶然というのは恐ろしいもので、そこから次々に色々な話が舞い込んで私は時代の寵児とまで言われ、この世界では有名になってしまった。
それからの積み重ねの結果で、今この場に立つ私。些細なきっかけで物書きとして生き始めた私はその後も思いついた時に思いついた世界を書き、世に送り出した。その中のひとつが今回業界でも権威のある賞を受賞し、一躍有名人となってしまったわけだ。
同業者や業界人、またはまったく関係のない第三者。色々な人から、賞賛、嫉妬、羨望と様々な視線を受け、私はこの場に立っている。
彼らからすれば、私は何よりも輝いて見えるんだろうか。内心で私がどう思っているかなど、知ることもない——否、そんなことなど最初から関係ないと言っても過言ではない。
ここに立つことになって、改めて気づかされたのだ。こんなの、私が望んだ世界じゃない。そう思っていても、誰もそれに気づいてくれないし、わかってくれない。いや、一人だけは——
「やあ、随分と退屈そうじゃないか」
いつのまにか私を取り巻いていた輩は、次の獲物のところへと移っていたらしい。物思いに耽っていた私の肩を叩き、気さくに声を掛けてきたのは私の編集担当だった。
「ええ、とても退屈だもの」
「今日の主役がこんなところにいていいのかい?」
「主役なんて大げさな。それに主役は私じゃなくて『私の書いた作品』でしょう?聞かれることは大体同じだし、私の答えも変わらない。それならどこに居ても何をしていても大差ないと思いますが」
「ははは、違いないな」
皮肉っぽい答えを気にする事なく、彼は気さくに笑って鞄から小さな瓶を取り出した。徐に栓を開けて手近なグラスに注ぐと、私に差し出してくる。進められるままに手に取って光を透かせば、淡い桃色をしていた。
「ようやく、これを開けることができた。このワインはちょっとした曰く付きのものでね。今日のこの場で、君に飲んでもらいたかったのさ」
「曰く付きって。それに、私まだ未成年なんですけど」
「はは、今この場で細かいことを気にしちゃいけないよ。今だから言えるが、君のデビュー作を読んで私は君の担当に志願したんだ。私にこれほどの衝撃を与えたのがどんな人物なのか気になったし、これほどの作品を書けるなら、きっとその先にも立てる。あの時からずっと、この舞台に君が立つ日を夢見てきた。それが叶った時に、君と飲みたかったのさ」
「随分とロマンチストなんですね。私、編集さんって、もっと頭の固い人かと思ってました」
「はは、違いないな。だが、君のような作家の編集を勤めるには頭が固いだけでは大変だろう? それこそ君が言った『ロマン』を理解してくれるような人物でなくてはな」
「それ、自分が理解できる、って言いたそうですね」
彼はそれには答えずにこやかに微笑むと、淡い桃色の光を発するグラスを掲げて言った。
「さ、乾杯しようではないか。今日この舞台に立った君の行く末と、これからも続く物語に」
「……是非もないですね。そう言われれば」
グラスの触れる澄んだ音が響く。あまり特徴のない、けれど、澄んだ甘い味わいが広がる。美味しい。
おおっぴらには言えないが、これが初めて飲むお酒、というわけではない。しかし、これほどまでに美味しい、と思えるものは初めてだった。
「さて、特別のお祝いも済んだところで、これを君に渡しておこう」
「なんですか? これは」
「開けていいよ。ただし、静かにね」
ゆっくりとグラスを空けた私に、彼は封筒を手渡してきた。しかし、静かに、とはどういうことだろうか。封筒の裏には差出人は書いていない。というか、糊付けもされていなかった。中には四つ折に畳まれた——
「辞令?」
「そうだよ」
「なんでこんなもの……を」
そこに書かれていたのは、彼の名前。そしてここから新幹線で三時間は離れた土地の名前。
「え、それじゃ」
「そう、私は今日限りで君の担当から外れることになった。とても惜しい限りだが、仕方ない」
「そう、ですか……」
知らず、声のトーンが落ちる。いつか来るとは思っていたが、まさかこのタイミングだなんて。少なくとも、彼は私のことを少しは理解してくれて、ここまで押し上げてくれた恩人でもあった。
「後任の担当には、誰が?」
「ああ、それは心配しなくていい。私がとある人物を推薦しておいて、それが通ったようだからね。今日この会場に来てるはずなんだけど、会わなかったかい?」
「いえ。ここでは取材の人以外は、特に誰からも声を掛けられたりはしませんでしたが」
「そうか……」
彼は言葉と裏腹に愉しそうな顔をしていた。
「なんか随分と愉しそうですね。私の担当を外れるのが、そんなに嬉しいですか」
「いや、そういうわけじゃない。次の担当と、君の相性を考えていたら、これほどの人事はなかったな、と自画自賛してしまいたくなってね」
「それってどういう……」
あまりににこやかに語るのが面白くないので食って掛かろうとしたら、彼の携帯が鳴った。言い募ろうとした私をいなして、ちょっとごめんよ、というと彼は外へと出て行った。
「もう、いつも重要なところでいなくなるんだから」
ついぼやいてしまって、慌てて周囲を見渡す。周りに誰もいないことに安堵して、私は改めて会場を見回した。
魑魅魍魎溢れる世界というものは、どこにでも存在しているものだ。そんなことは頭ではわかっていたつもりだった。しかし、実際に中に立って見るならば、ここほど酷い世界はないんじゃないか、と思ってしまう。
些細な切っ掛けとはいえ、物書きの世界へと足を踏み入れた。具体的なイメージはないまでも、憧れていた世界。しかしいざ自分が突然放り込まれてしまうと、戸惑いばかりで怖くなるばかり。この会場がまさに、その縮図だった。
表面上はみんなでにこやかに語り合ってるように見えても、その実話している内容は千差万別。ただ、よく耳を傾けてみれば誰かに対する羨望や嫉妬が大半でもある。
「……いつの時代になっても、こういう景色は変わらないのね」
小さくぼやきながら、いつか見たミュージカルの舞台を思い出す。
ハプスブルク家の黄昏を描いていたその歌劇の中、貴族たちのパーティーの中で似たような景色が描かれていた。
その場面で展開されていた会場のざわめきは全て、身分の低い家から突然、一帝国の母になった少女への羨望と嫉妬の声。
ああ、そうだ。彼女は、そのまま私のことだわ。思い至って苦笑いが漏れる。
何の気なしに思いついたまま創り上げた世界で一躍世に輝いた私。ただの高校生で、学校の成績も決して良いわけではない。見た目だって良くもなく悪しくもなく平凡で大した事ない。ただ沢山本を読むことが取り柄で、作家といっても気まぐれ程度にしか作品を書けない私が、急に時代の第一線に躍り出たのだ。現役で活動している同業者からすれば、目障りなことこの上ないだろう。
新人賞を受賞してから後も、学校での私の立ち位置はほとんど変わらなかった。事情を知っている人……ごく一握りの友人ではあったけれど、彼らは悪戯に言いふらすことでもないということをわかってくれていたし、仮に偶然誰かがこの事実を知ったとしても、周囲の誰もがそれを信用したりはしなかった。だからここに居る人たちみたいに、嫉妬に駆られていじめが起きるなんてことすらなかった。先生達ですら、受賞の話題は出ていたけれども、それが私だということがわかっているのかいないのかといった様子だったので、何の問題もなかった。
要するに、私の学校での立ち位置はそういう立場だったのだ。居ても居なくても同じ。周囲から突出せず、ただとりあえず決められたからそこに居るだけの存在。何かを起こす事もなければ、目立つ事などもっとあり得ないのだ。
ただ、今回さらに大きな賞を受け、今後の私はどうなるだろうか。
舞台の中の彼女は、どんな結末を辿ったのか。
「やあ、ごめんごめん。急な電話で悪かったね」
私の思考を遮るタイミングで、全く悪びれた様子もなく、彼が戻ってきた。
「別にいつものことですし。それで、後任の方について聞きたいんですが……」
あまりにあっけらかんとしたその態度にさっきまでの毒気を抜かれ、ため息を一つついて言葉を続ける。
「その事だけど、つい今しがた着いたそうだよ。とはいえ会場には入りづらいようでね。私が彼を連れてくるから、君はあっちのテラスで待っていてくれたまえ」
「入りづらいってそんな。それにそういうことなら、私が出て行けばそれで、」
「そんな事をして見つかったら余計に大変なことになるさ。それにほら、樹を隠すなら森の中、って言うだろう?」
ささ、行った行ったと押し出された私は、慌しく走っていく編集さんの背を見送りため息をついて。下げた視線の先、いつのまにか注ぎ足されていたワインを眺め、もう一口味わった。
淡い桃色のそのままの甘さに酔った私は、ふわり、と浮かぶ熱に誘われて、彼女の終焉を思い出す。
「そうだ、彼女は最期、暗殺されたんだ」
けれど、それは彼女の意志でもあったのだ。幼い頃に出逢い惹かれ合うも、成長につれて傷つけ合い、さらにそこからの長い長い迷走の果て、彼女が得た結論は死して幸福を得た。
彼女はそうして永遠の、ほんとうの幸いに出逢えた。じゃあ、私は? こんな場所で、彼らに相対することすらまともにできないほど幼くて、それこそ、いつまでだって書けるかどうかわからない、先の見えないただの子どもなのに。
私は、これからも書いていけるだろうか。この先も生まれてくるであろう『私の子供たち』に嘘をつかずに、書いていけるだろうか。
物語は創るものなのか、創らされるものなのか。創りたいのか、創らされたいものなのか。
決して長くはないけれども、今まで生きて得てきた様々な想いがある。それら全てを抱えて、私はここにいる。
もし、書くという行為が、私にとって違うものに成り代わってしまったら。その時は——
夜風に誘われて空を見上げれば、申し訳程度に星が散らばっている。都会の明るさにそれでも負けじと、星たちの光を受けながら蒼い月が空に浮かんでいた。今日は確か、満月には足りない、一四日の月。
(一夜の思索に耽るには、ちょうどいいのかな)
満ちることない、何かが足りていない今の私には相応しい。言葉に出さず、そんなことを思って月を見上げた。
ここはもう、会場の喧騒すら遠い。今の私には、誰も届くまい。と。
「待たせたね。受賞、おめでとう」
「……え」
私の背中に襲いかかる、聞きなれた声と口調。
振り向けば、とうに見慣れた姿。
「前の担当さんは、用事があるって帰ったよ。いきなり資料から何から全部押し付けて行くんだもんな。忙しいのはわかるけど、あの人も随分だよね」
呆然とする私を他所に、君も大変だったんじゃない? とその人は笑った。
体が震え、グラスを取り落とす。ガラスが割れる涼やかな音が響き、被せるように掛けられた声は、私から冷静さを奪うのに十分だった。
さっきまで形を持っていた蒼い月が滲む。目の前のその人の顔が滲む。けれど、どんな表情をしているかなんて、考えるまでもない。いつものように、優しく暖かく微笑んでいてくれてるに違いない。だから、目の前の温もりに身を委ねた。
その人の手が私の頭にそっと触れる。その優しさが、何よりも嬉しくて。声を殺し、けれど溢れる物を抑えず、すがりついて泣いた。
そう、わたしはこんなにも不安だったのだ。寂しかったのだ。
あの会場の中、頼れる人はだれもいなかった。
編集さんだって、近くに居るようで実は遠くだった。そして本当に遠くへ離れて行ってしまった。
様々な思いが私の中を駆け巡る。自分が流されそうになるのがわかって、私はより一層目の前の暖かさにしがみつく。
そしてそれが、今の私を支えてくれている。そう気づいて、私は顔を上げた。そのひとの微笑を目にし、私はそっと涙を拭った。
もう少しこうしていたい。そんな気持ちを抑え、私はそっと体を離す。何も言わず私を見つめる視線を受け止め、改めて手をしっかりと取って、蒼い月を見上げた。
もう、滲んでいない。満月には足りないけれど、はっきりと丸い形が見えた。