【ひとりしずかに】 11月。『さがしもの』のお話。

 ここ数年、私は『年を経るごとに自分の記憶が信用できなくなってきている』と何かにつけてぼやいている。
 これを言い出した理由として、決して『物忘れが激しくなった』とかではない(はずだ)。今までに読んだ本の文章や内容はほぼ覚えているけれども、その出典がどこなのか、また題名が何であるかをすぐに思い出せない、ということに起因している。題名を忘れるほど次から次へと読んでいるわけでもないだろうに、やはりこれは私の記憶領域がポンコツになったせいだろうか。これでも昔は記憶の使い方に自信があったのに。
 というわけで、今回は私の『さがしもの』のお話である。

 さて、『さがしもの』とはいっても、私が自己紹介で言及している永遠のさがしものの『夜の朝刊』のことではない。今ここでこの言葉に詳しく触れると、今回の本筋から大幅に離れてしまう。とはいえ、たまに何のことか訊かれることがあるので、せっかくなので簡単に紹介だけしておこう。
 私がかつて演劇に関わっていたことがある、というのは、以前ここで触れた通りである(7月の話を参照)。『夜の朝刊』という言葉は、この頃に別の高校へ進学した友人から紹介されて読んだ、或る演劇脚本から拾ったものだ。この言葉がセリフとして登場・解説された場面を紹介すると、以下のようになる。

   新聞記者の間では『夜の朝刊』と呼ばれるものがある。
   記者が書いたもの全てが『朝の朝刊』として
   届けられる訳ではない。
   何らかの理由により
   『朝の朝刊』へ載せられることがなかった原稿群のことを
   『夜の朝刊』と呼んでいるのだ。

 元のセリフ部分はもっと長いので、掻い摘めばこのようなものだ。このセリフの少し前の役者のやりとりで、新聞記者本人が『夜の朝刊』を口にする場面がある。その時、それは言葉の意味としておかしいのでは、という彼への問いかけに対しての答えが上記の内容だ。ちなみにこの言葉が実際に使われているのかは私はわからない。少なくとも今まで探してみて、それが使われているという話を見たことがない。読者の中でマスコミ関係の方がいたらぜひ教えていただきたい。
 と、それはそれとして。私がこの言葉を自己紹介に使っていると、先に述べた通り意味を訊かれることがある。この説明をする際に、喩えとして『磨かれたダイヤモンドではなくその原石』と言っている。形を整え磨き上げられたものも美しくて素敵だが、手入れする前の原石もまた独自の美しさがある、という持論に基づくものだ。実際私は、宝石よりも鉱物標本の方が好みだし。
 文章についても同じで、推敲・校閲を繰り返したものは確かに美しい。しかし、書かれた一番最初の形もまた、私にとっては非常に興味深いものなのだ。贅沢を言えばその変遷も読み解きたいのだが、それはまた別のお話として。
 元の場面から転じた独自解釈とはなっているものの、私は総じて『夜の朝刊』と呼んでいる。出典元も私の解釈も、公に日の目を見ることがないという意味では共通しているからだ。
 私の好きな形の一つであり、永遠のさがしもの。そんな『夜の朝刊』については、また別の機会で話題にしていきたいと思う。

 さて、話を戻そう。今回の『さがしもの』の本題は、子どもの頃に読んだ一冊の本である。
 私が実家を離れてからずっと探している本で、数編の小噺が纏まった短編絵本だった。記憶では四編の物語と著者の趣味について語るあとがきで構成されており、今でも強く自身の中で映像が残っている。いずれも非常に私好みの素敵な物語なのだが、本の装丁とある程度の内容まで覚えているのに、題名だけがなぜか綺麗に抜け落ちている。題名だけでも判ればもっと簡単に探せるのにな、と思いつつも思い出せない。なんとも困ったものだ。
 差し当たり装丁だけをしっかり思い出すなら、大きさはB5版、厚さは1センチ程度だったと思う。本についてのことを少し知っている今考えると、もしかしたら個人で自費出版された趣味の本なのかもしれない。普通の絵本というよりも、ジャンルとしてはそちらのほうが正しいような気がする。
 ともあれ、内容を大層気に入った子供の私は、これを何度も繰り返し読んでいた。ただし私の所有というわけではなく、母が持っていたものを読ませてもらっていたのだ。
 母がその本をどこでどのように入手したのか、細かいことは一切わからない。気がついたら家にあり、母の蔵書の中に混じっていたものだ。大学に進学が決まって実家を離れる時にその本もこっそり持ち出そうとしたが、その時には既に見当たらなかった。
 大人になってから自分で探しつつ、母にその本についてそれとなく聞いてみたことがあるのだが、当然全く覚えていなかった。ただ、私が中学に上がる頃に、自分の本の一部を他所へ寄贈したと言っていたので、もしかしたらその中に混じっていたのかもしれない。
 とにかく、現状で行方知れずである以上、今や私の記憶にしか残っていない本である。実物がまだ存在しているのなら是非ともまた読みたいのだ。
 捜索の手掛かりと私自身の記憶の補強に、以下にあらすじを紹介したい。各話の頭の『⚫︎』は章題ではなく、私が勝手につけ足した一言であるのであしからず。

⚫︎ 不思議さがし(この噺の章題が本のタイトルだった気がする)
 夏休みに、田舎の祖父の家に来た少年。
 退屈で仕方がないという少年に、彼の祖父が『不思議探し』を提案する。
「不思議な事を探して来て、見つけたと報告する毎に飴玉をひとつあげよう」
 と、瓶にいっぱいの飴玉を見せる。
 しかし、何が楽しいのかわからない、と乗り気じゃない少年。そこに、いとこの少女が遊びに来る。
 退屈そうな少年をよそに、祖父から『不思議探し』の話を聞いて「面白そう!」と言ってやや強引に彼を外に連れ出す。
 夏休み、二人の不思議探しが始まる。

⚫︎ある日の風景
 夏休みの宿題? で絵を描く姉と弟。
 公園(だったと思う)でお互い場所を決めて描き始める二人。
 手際の良い姉の方は早々に仕上がり、弟をからかいつつも公園で遊び始める。
 弟は器用ではないものの、ただ真剣に、愚直に、目の前のモチーフを描いていく。
 弟の絵が完成したのは夕方。その絵に描かれていたものは……

⚫︎電気イカを探して
 弟は、兄とその友人が秘密基地へ遊びに行くのを、いつも見送るだけだった。
 というのも、彼は背が足りずに登ることができない高い壁の前で、兄たちがいつも軽々と登っていくのを見ることしかできなかったからだ。
 ぼくも連れて行ってと駄々を捏ねるが、毎回必ずこう言われる。
「電気イカが見えたら、連れて行ってやるよ」
 彼にはまだ登れないその壁の前でそうして置いていかれ、電気イカなんているわけないじゃん、と不貞腐れる。
 数年後のある日のこと。それなりに大きくなった彼は、学校の帰り道の途中でふと立ち止まる。小さい頃にいつも兄に置いていかれた壁の前で、それまでに見たことのないものがも見えたからだ。
 今まで見えなかったそれは一体何なのか。正体を確かめるべく、彼はようやく届くようになった壁の天辺に手を掛ける。
 壁の向こう側、彼が見たものは何なのか。兄とその友人が言っていた『電気イカ』、その正体とは。

⚫︎風の通り道
 母親が買い物に出かけ、兄弟は留守番をしていた。
 外は天気が悪くて今にも雨が降りそうな様子、そもそも留守番なので遊びに行くこともできなかった。
 仕方なく兄はテレビゲームを退屈そうにしているが、弟は外を楽しそうに見ているので、何が面白いのか尋ねてみる。
 すると弟は「風が来るよ」と興奮した様子。
 見えないのになんでわかるんだ、と兄が訊いた直後、ガタガタと家を揺さぶる強い風が吹き抜けた。
 驚いて弟を見る兄に、彼は得意げに外を指差した。
「見えるよ、ほら」と指差した先は水田(だったと思う)。風が吹くことで大きく稲の葉が揺られ、風が迫ってくるのが見えたのだ。
 さっきよりも雲はぶ厚く、夕立の気配が近づいている。彼らはその後、外の風景を眺めつつ、また天の気まぐれに翻弄されつつ、退屈だったはずの留守番の時間は過ぎていく。

⚫︎作者のあとがき
 アウトドア? とジムニーの話。

 以上、憶えている限りのあらすじである。
 それぞれオチというか結末がどうなるのかは伏せているが、奇を衒うような物語ではないことは共通している。故に、本を読み慣れている人にとっては、それぞれの物語がこのあとどう進むのか、予想は容易いであろう。これらは全て、とある夏の小さな物語である。
 作者のあとがき以外は全て、私は7割くらい完成形で文章化できる。残りの3割については記憶に曖昧な部分があるので補完しながらになるが、それでもそこまで鮮明に憶えているのだ。
 当然いろいろと問題があるので、ここでそれぞれの文章化したものを出すわけにはいかない。が、このあらすじだけでもそこそこの手掛かりにはなるのではないかと思い、改めてここで公開してみた。
 以前に友人を頼り、この本ではないけれども記憶にあるセリフの出典本を探してもらったことがあった。私は探し物が下手なのだろうか、と思ってしまう。この本を探し出せないことを考えても、実際そこまで上手くないのかもしれない。
 というわけで、もし気まぐれでも偶然にでもこれを読んでいただいた方、どうかお願いしたい。この物語について存在を知っている方がいたら、ぜひとも情報提供を。決して多くはない残された時間のうちに、もう一度だけでいいから読みたい物語集なのだ。


《 11月の終わりに 》

 今月はエッセイというか、ただの捜索願のような文章になってしまいました。この探し物についてはいつか触れようと思っていたのですが、きっかけになることが色々あって今月出してしまうことに。気がついた時に探してみてはいるのですが、あまりに手掛かりがなさすぎて、どうしようもない。
 心当たりがある方、どうかお願いします。コメントでの返信、Twitter(現・X)のdm、なんでも結構です。たとえわずかな情報でも教えてください。あと一度でいい、この目で読みたいのです。
 さて、今年ももう終わりが近づいています。来月は数年前に頓挫したことを見直し、もう一度やり直そうと考えています。見通しは立っていないものの、少しでも手をつけておきたい。それこそ『夜の朝刊』を『朝の朝刊』に出来るように。

 それではまた、別の物語で。

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