【夢と現の狭間に】 「素敵な春の逢瀬。」
ずっと、待っている。私にとってはとても長い、けれどこのひとにとってはあっという間の時間を。
三百六十六日。これだけが、私たちに許されている大切な時間。ただ、このひとにとってはそれが毎日なのに、私にはそのあと千九十五日の空白が待っているのだから、大概だと思う。
とりとめのない事に思考が泳いでいると、ねえ、と頬をつつかれた。
「また、難しい顔してるね」
「そう? ちょっと疲れてるのかな」
いけない、せっかくの時間をまた無駄にしてしまった。こうして一緒にいられるのは、とても貴重なことなのに。
「仕事がんばりすぎじゃない? 私の誕生日に向けて、いろいろ頑張ってるって言ってたけど」
二〇二四年二月二九日。そう、今日はこのひとの誕生日。今日でちょうど三十歳になる。
「だって、今日から三十路でしょ? せっかく大台に乗るんだから、何か特別なものあげたいかなって」
「一緒にいてくれればそれでいいのに。でも、ありがとう」
そう言って私をそっと抱きしめてくれる。
ああ、温かい。こうしていると、今ここに確かにこのひとが存在しているんだな、って伝わってきて、胸の奥が、きゅっ、とする。そこから全身に甘い痛みが伝わり、涙腺も緩くなりそうで。
「ふふ、そう言ってくれるのは嬉しいけどね」
気づかれないように。そっと、体を離す。本当の理由を悟られないように、表情をつくることも忘れない。
「一緒にいるんだから、せめてそれがはっきりわかるようにね」
テーブルに置いておいた箱を取り上げると、中から鈍く輝くネックレスを取り出した。
「これ、初めて見た時に一目惚れしたの。あなたに似合うんじゃないか、って」
離した距離を不審がられないように慎重に、正面から腕を回してそっと首につけてあげる。ころん、と胸元で小さな天使の羽が揺れた。うん。見立て通り、やっぱりよく似合う。
「わあ、かわいい」
鏡を見て嬉しそうに微笑む姿は、まるで子どものよう。なんだか、不思議な感じがする。
「そんなに喜んでもらえたら、頑張った甲斐があったわね」
「だって、いつも私がほしいな、かわいいな、と思うものをくれるんだもの。嬉しくないわけがないわ」
それは、そうだ。
「当たり前でしょ、わたしを誰だと思ってるの?」
そんなの言わずもがなでしょ、とまた抱き寄せられた。間を置かずにまたさっきの痛みが戻ってきて、息ができなくなりそう。誤魔化すように、胸元に頭をぐりぐりと押し付けた。
「ほんと、君はあまえんぼさんだよね」
そう言って、私の頭をそっと撫でてくれる。ああ、心地よい。たとえそれが夢なのだとしても、否、夢だからこそ、鼻の奥がつんとして、今度こそ泣きそうになる。
泣いたら、だめ。だって、このひとはきっと、知らないのだから。
「そんなに言ってもらえるなんて、ほんとに、うれしい」
ほんとうの泣きたい心を隠し、けれど嘘ではない言葉を探す。
そう、嘘じゃない。このひとにこうしてもらえることが、喜んでもらえることが本当に嬉しいのだから。嘘じゃ、ない。
「ねえ、今日さ」
私のそんな様子を知ってか知らずか、このひとはいつものように、そっと耳元で囁いた。その声は、確かな熱を以て私を溶かしてくる。
そう。夢ならば、なんだって許される。その言葉に甘えて、私は抵抗をやめることにした。
今日はこのひとの誕生日なのだから。このひとがしたい言葉に甘えても、赦されるよね。脆いこころに、ひとときの潤いを貰ったって、赦されるよね。
誰にともなく言い訳をしながら、このひとの腕に身を委ねる。胸元を熱く濡らしている、今ここから伝わる、ここに在る熱は本物なのだ、と覚えておくために。誰にでもないこのわたしに、憶えさせておくために。
ああ。夢と識りせば、醒めざらましを。
この夢を過ぎた後に待つ永い夜を越えるために、私は今ここで、愛おしいこのひとの腕の中で、夢を見るのだ。
——それは春に始まって、春に終わる夢なのだ
思春期の頃に読んだ詩集の一編で、初めて読んで以来ずっと頭の片隅に残っている言葉だ。ただ、改めて考えると、今の私を予言していたんだろうか、などと邪推してしまう。
一九〇〇年、二月二十九日。それが、このひとの生まれた日。
出会ったのは、私が二十四歳で、このひとが二十七歳のとき。
ただ、今年はもう、私はこのひとを追い越してしまっていた。
今日が終われば、あと三百六十五日。
四年に一度。素敵な春の始まりから、私はまたたった一年の夢を見る。