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【ひとりしずかに】 5月。新緑の香る夜の散歩道で、心のきしむ音が聞こえる物語に身を浸す。

《 深夜の散歩道 》

  西国へと向かった時に、ほぼ欠かさず立ち寄る場所がある。
 それは、静岡県浜松市天竜区(旧・天竜市)の「月」という場所。天竜川の船明ダムの湖畔にある、閑静な場所である。
 ここを私が知ったのは本当に偶然だった。まだ大学に入って間もない頃、とある場所で「ねえ、月まで歩くとどれくらいかかるか、知ってる?」というようなセリフを読んだのがきっかけである。
 そこで紹介されていたのがこの場所だ。とある界隈では有名な国道152号からの分岐点に
『月 3km』
 という案内の青看板があり、その先に特に何かあるわけではないのだが、ささやかな名所? になっている。
 ただ、私の知らぬうちにいつのまにかテレビで取り上げられたり、どこかの小説家さんが何かを書いたりしたようで、今ではそこそこ有名になったらしい。
 とはいえ、ここを訪れることのできる交通手段は限られており、また特に目立った観光施設があるわけでもないので、昼間でも割と静かな場所であることに変わりはない。私の中で五指に入る、お気に入りの場所の一つである。
 私がここを訪れるのは、行路の都合もあってだいたいが深夜である。風のない夜は静寂で耳が痛くなるほどであり、周囲に満ちる何らかの気配を犇々と感じる事ができる。
 集落に昼間訪れてみたいとは思うけれども、私が散歩道を選ぶ基準の一つは『独りで思考に沈む事ができる環境』である。当然、時間帯は夜が中心になり、人の気配が少ない場所が多くなる。故に、昼の集落は対象にはなり難い。
 ひっそり静まり返る誰もいない場所で、思考を巡らせる。そこに自分以外の存在が見えたなら、それを捉えるのもまた一興である。
 ただ、そのせいもあって、我が友人には『土地に呼ばれているんだきっと』と言われてしまうほど、妙な場所を訪れることが多い。
 この『月』もそうであるが、他にも山間の小さな神社だったり、いわゆる遊歩道から少し外れたところにある休憩所とか、一歩踏み出したら落ちるだけの場所とかもまあいろいろ。私のTwitter(現・X)を見てると、大体どこをほっつき歩いてるのかがわかっていただけると思う。
 関連して、ちょうど一月前くらいに、ここ最近で立て続けに事が起きたとある場所へ、実際に足を運んでみた。
 念の為誤解のないよう断っておけば、決して興味本位の行動ではないということである。
 先述の通りの条件でひとりで思考に沈める場所を探していると、どうしても『そういった』場所も対象に入ってくる。自分の思考実験と合わせて、物を書く上での取材にもなるからだ。私のような物書きは、実際にその場を見ることが一番の取材になる、と思っている。このしがない身一つで感じ取れるもの全てを身に刻む、それが、私のやり方である。
 結果、この日は現地でちょっとしたやり取りがあり、一人でその場に残ることは叶わなかったのだが、思考実験はできなくともある意味で実りのある取材ではあった。まあ時勢を考えれば予測できる事態ではあったし、今度は行く手段そのものを考える、という一つの課題も見えた。
 実際に目の前に見えるものから、見えないところを想像して物語へと落とし込んでいく。たった一人取り残されるその場所では、否応なしに自分とその場所しか存在しない。そこに紛れ込むものは、無いからこそ見えるものだけだ。
 一般的な趣味嗜好とずれている、頭がおかしい、と言われようとも(後者は実際言われたことがある)、それは私にとってはもはや雑音にもなり得ない。
 深夜の散歩道は、私自身の歩くべき道を探す旅でもあるのだ。


《 『心のきしむ音が聞こえる』物語 》

 私は、本と言われれば大抵のものは読む。小説、エッセイ、論文、漫画、資料集、その他いろいろ。電子書籍もそれなりに。でも、やはり紙の本を手にして読む、というのが一番好きだ。
 但し、その作品自体を気に入る、好きになる、ということは当然別の話である。気に入って何度も読み返すこともあれば、とりあえず読むだけ読んでそれっきり、ということも勿論ある。
 自分の趣味嗜好が世間一般で言われる普通よりも大幅にずれている、ということは自覚しているので、その事自体をそこまで気にしているというわけではない。だが、それゆえに、自分の趣味を他の人に語るときは細心の注意を払っている。まあ先月書いた通り、自分のことでそこまで話をすること自体が相当稀であるのだが。
 それはともかくとして、私が好きになる物語というものに(ほぼ)共通していることがある。それは

『心のきしむ音が聞こえる』

 ということだ。ちなみにこの言葉は、私淑する村山由佳先生の『BAD KIDS』からお借りしている。
 物語の状況によって、登場人物が持ち得る感情は様々である。だが、その表現方法次第で、こちら側を大きく揺さぶるほどのものがある。それを私は、先述の言葉で表現している。
 たとえ同じ感情を書くとしても、ただ平たくそこに有るだけのものと、そこに在ってなお外側へ訴えかけるものでは、当然そこのシーンに対する思い入れなんかが変わってくるし、作品全体への興味関心も大きく変わる。
 読むものから読者の感情へ訴えかけることの一つに『共感性』などとも言われたりするが、そこまで正確なものではない。正直書かれている情景によっては、全く正反対の感情を抱くことだって当然ある。全てにおいて、物語の登場人物が感じているものをそのまま私自身にトレースできるわけではない。
 私とて物書きでありながらも、一個人という俗人である。ゆえに、事象に対する感情というものは存在し、それが作中と全く同一のものとは限らない。これは至極当たり前の話である。
 ただ、たとえ共感できない正反対のものだったとしても、その情景での心の動きが伝わってくるものだとしたら、それはとても素敵な物語である。物語を通して酸いも甘いも知り、呑み込み尽くす。小説を読むことの醍醐味の一つである。
 ひとつ補足するなら、その捉え方をするものは本に限らない。映像作品や舞台、絵や楽曲など。やや語弊があるが、本に限らずそのようなものを感じ取れる美しいものが好きなのである。
 創られたものが訴えかけてくるものが、私を創る。素晴らしきこと哉。


《 読書メモ 》

⚫︎『ブルースカイ』(著;桜庭一樹先生)

 ——あたしは死んだ、この空の下で。

 というわけで、今回は三つの箱庭の話である。
 最初は1627年のドイツ、次は2022年のシンガポール、最後は2007年の日本が舞台になる、とある少女が時を翔け……じゃなくて時空逃亡犯になるお話である。
 わたしと、せかいを、つなぐもの。2007年当時といえば、ガラケー全盛期。ガラケーという言い方もおかしいな、今(2024年)から見ればガラケーだが、当時は普通に『携帯電話(ケータイ)』と呼ばれていたものだ。
 業務用のツールが利便性を求めて小型化・高性能化していくうちに、いつのまにか若い人々のコミュニケーションツールとしての地位を確立、以降、いかに若い人々にウケるか、という視点でも新機種の開発が続けられていった……と、別に携帯電話について語りたいわけではない。話を戻そう。
 ともかく、少女が時空逃亡犯となった触媒は、この携帯電話である。携帯電話がつながる、ということは、ただ電波を送受信するわけではない。そも、その電波自体はとある巨大なシステムの一部につながるものだったのだ。
 遠い未来、おそらくは現在の人類の何世代も後の子孫であろう、世界のシステムについて理解した人々が、その秩序を守るために監視者たちを置く。強化老人、と言われるそれらは、その名の通り年老いた見た目だが、その体は薬物投与などにより強化されている。さまざまな時代、さまざまな環境で生きられるように体をいじられた彼らは、システムの秩序を保つため、それが乱れた場所へと飛んでいく。そして原因を突き止め、場合によってはそのシステムにアクセスした者たちへ処置を行う。
『——誰かがシステムにアクセスした!』
 これが彼らの仕事の始まりの合図なのだ。
 私的にとても興味深いのが、第二の箱庭である2022年のシンガポールの中で、現在とある業界で大盛況の技術に触れられている。
 この箱庭のストーリーテラーであるディッキーは、シンガポールにある巨大企業勤めの青年である。彼が勤める企業はゲーム開発企業であるものの、その規模は国家プロジェクトと言えるほどの重要なものである。
 彼の勤めている会社のゲームは、仮想現実の世界で遊ぶものだ。プレイヤーはHMD(ヘッドマウントディスプレイ)と呼ばれる機器を装着し、まっさらなルームと呼ばれる空間の中でその世界を体験する。
 聡い諸氏ならもうお気づきだろうが、これは現在かなり普及しているVRの話に似ているのだ。
 著者の桜庭先生が、こんな言葉を残している。
『また、わたしは小説に普遍性と、現代性を併せ持たせたいと思っています。(中略)私はエンターテインメント作家として、起こった事件を後追いするのではなく、社会の、現実の予言となるような現代性を、これからも小説を書きながら(後略)』(『桜庭一樹 〜物語る少女と野獣〜』より引用)
 この技術そのものが、形が違えど今のVR技術に繋がっているものだと思える。ここで多くは語るまい、ぜひこれは本編を読んでいただきたい。

 さて、話がこんがらがっているが、私が今回これを拾い出した一番の理由は、『だれかとせかいをつなぐもの』という点において、私の一番好きな形が整っているから、である。
 その時代によって手段や媒体は違うものの、全てはその人の『せかい』に繋がるもの。それぞれの持つ重要なもの、大切なもの、守りたいもの、色々あるけれど、そこに至るための手段であり、繋がり続けるための絆でもある。
 正直言ってこちらの私には一番縁遠いものであるが、観測者としての私なら、これほど綺麗なものはあるまい、と思えるのだ。こと、世界を渡り歩いている少女の持っている『携帯電話』について言えば、私が長年愛してやまない他の作品でも重要なツールとして登場している。この作品についてはまた後日に取り上げたい。
 とにかく、桜庭先生の好きなSFであるものの、その世界に於ける人と人との関係性もまた美しい。そこにそれぞれの時代が掛かり、箱庭が形作られる。
 魔女という存在が信じられていた1627年、出版された当時は未来であった2022年、そして、『そら』が生きていた2007年。今の私たちにとっては全て過ぎた過去の話である。SFではあるが、それぞれの時代の歴史背景を洗うと、こちら側との違いを見る意味でも楽しめる。
 そして私も夢見るのだ。いつか自分が、本当の意味で『せかい』と繋がることができる手段を見つけて、そこに繋がることができるという夢を。


《 5月の終わりに 》

『まわりをよく見回してみると、われわれの生きているこの世紀は、まことに憂鬱な愚かしい時代である。美徳の観念などすっかり欠落してしまっている。われわれ人間には良心というものがあるが、同時に残酷さもあり、裏切りや、盗賊行為をする悪心も宿っている。だが、それらが、法の陰に隠れて、安全に、密かにおこなわれることほど邪悪なものはない。わたしは、物陰で狡猾におこなわれる不正よりも、はっきりと表立ってなされる不正のほうをまだしも許容する。うわべを飾った不正よりも、戦闘的な不正のほうをまだしも許容する』
         (多島斗志之先生『海賊モア船長の遍歴』の一部分より)

 いきなり他所からの抜き出しであるが、日々の仕事の側で色々あって頭の痛いことが続き、まさにそんな気分である。ただ、そのおかげかはわからないが、とりあえずは書くことだけは続けていられる。むしろ書くということについて、自分がより執着を強めているようにも感じられるのだ。今以上に言葉と文章に依存していた、大学の頃の感覚に近づきつつある。
 物書きという生き方は、死ぬまで離れられないものだ。今回読書メモで紹介した桜庭先生は、とある作品でこう言われている。
『小説のことだけは決して舐めちゃいけないよ、死ぬまでね』
 日々暮らしていれば色々あるだろう。しかし、書くということについてだけは、今後も文字通り懸命に向き合いたい。
 いまのところ、1ヶ月30日ある間で10日ずつ区切り、ものを書いている流れになっている。
 最初の10日で自分の気になるものや好きな物を、次の10日でエッセイを、最後の10日で図書室の二人の話を仕上げる、という形。ただこれはあくまで重点的に力を入れている日数であり、たとえば最初の10日の間にエッセイや二人の物語の種を拾ったりということは勿論あるので、その時は都度落とし込みをしていたりする。
 最初の10日のものについては、本体の方で紹介した5月の頭のアレの通り、外に出さないものが多い。気まぐれに二次創作などもやってみたりするが、基本的に自分が読むためだけのものだ。
 でもこの流れのおかげで、今の生活に於いて言葉と本に触れている時間がほとんどになり、心持ちはとても落ち着いている。次にやりたいこともあるので、そのうちここでも話題にしてみたいと思う。

 それでは、また今月末に。次はあの二人の物語でお会いしましょう。

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