【ふたりしずか・別話】 夢と現の境界にいた日
< Side 夏海 師走某日 昼 >
「眠い、なぁ」
ベッドの上でごろごろしながら読むともなしに文庫を流していたが、ページの上を滑るばかりで内容はまったく頭に入ってこない。あまりの実りのなさについ口から出てしまった一言は、今の自分の感情を端的に表していた。いつか誰かから聞いた『Lazy Afternoon』なんて言葉を思い出す。まあでも、特に予定のない休日の午後なんて、そんなものかもしれない。
今年ももうじき終わろうとしているのが、12月という月である。師走と言われるだけあってそれなりに忙しいんじゃないか、と言われるかもしれないが、ただの高校生である自分にはそんなに縁がある言葉ではない。せいぜい期末テストの結果に一喜一憂するくらいだが、それに『忙しい』という言葉が当てはまるかは疑問である。自分で言うのもおかしいけれど、そこまで成績は悪くないつもりだ。
そんな期末テストが終ったあとの、冬休みが始まるまでのぽっかりと空いた数日間。一応そこそこの進学校なので『やるべきことは自分で見つけなさい』というスタンス故に、この期間でやらなければいけない課題は特に出ていない。この後待っている冬休みのそれも似たようなもので、あったとしても瑣末な代物ばかり。今から手をつけておかねばならないほど、厄介なものもない。
「……もう寝ちゃおうかな」
つまり、取り立ててやることもない、何事もない休日である。そしてなんとも都合のいいことに、家族は揃って出掛けていた。私は用事があるからって言って行かなかった。だって面倒だし。
確か今日は帰りが遅いみたいなことを言っていたし、別に今から寝てしまっても誰にも怒られない。食欲すらそれに引っ張られて、夕飯も別に食べたいとは思わない。ああもう、今日はなんだか何もかもが面倒くさい。
無駄に思考を巡らしてしまい、なんだかいつも以上に鬱々としてきた。でも抗うだけの気力もないので、今日はこのまま呑まれてしまおう。そう決めて本を机に置き、枕元に放り出していたスマホの電源を切ろうとしたら、手の中でそれが鳴き出した。
「……」
画面に出ている名前を見て、思わずため息が出る。まったく、あの子は暇なのだろうか。とはいえ、暇人なのはお互い様か。自分の今の状況を思い直してため息二つ目。
そんなことに考えを巡らせているうちに、あっさりと鳴き止んだ。なんだ、諦めたのか。と思ったら、その思考を読んだタイミングでまた鳴き出す。
「……もしもし」
正直、あまり気乗りはしなかった。でも、無視するにはちょっとだけもったいない気がして、いつもよりノロノロした動作で電話を取った。
「あ、やっと取ってくれた。先輩、起きてました?」
寝てると思ってたのか。まだ昼過ぎなのに。
「電話取ってくれないんですもん。先輩のことだからきっと家で引きこもってるだろうし、だとしたら寝てるしかないかな、って」
さりげなく失礼なことを曰う後輩だが、あまり間違っていないのがなんとも悔しい。まさか、どこかにカメラでも仕掛けてるんじゃなかろうな。
「あ、心配しなくてもカメラとか盗聴器とかは置いてないですよ」
そんなのスマートじゃないですからね、と、からからと笑う。まったく、人の心を読むんじゃない。
ここまで私は、最初の『もしもし』以外一言も発していない。全てあの子が一人で喋っているだけだ。まあ、それはそれで別に構わないのだが。
「……用がないなら切るわよ」
「あー、待って! 切るのは待ってください先輩!」
慌てて私を引き止める様子に、思わず苦笑いが漏れる。まあ、別に本気で切ろうと思ったわけじゃない。今日はどんな話を持ってくるのやら、と、とりあえず続きを促すことにした。
「先輩、夢って見ます?」
「夢って、寝てる時に見る夢のこと?」
「そうです、その夢です」
ふむ、見るといえば見るし、見ないといえば見ない。
夢を見るときはあるけれど、正直朝になるとすっかり忘れてしまっている。見ていたのかも、とは思っても、夢自体の映像についてはまったく憶えていないのだ。
「ほとんど見ないかな」
「あ、やっぱり」
やっぱりとは何だ。その通りではあるが、いざそう言われるのはなんとなく釈然としない。
「先輩、一度寝たら眠り深そうですもんね」
ああ、そういうことね。
「深い眠りの時って見ないんだっけ」
「たしかレム睡眠がどうたらこうたら、とか何かで書いてあったような」
そんなうろ覚えの知識で聞いてきたのか。まあ別に専門家ではないからその程度でいいんだろうけど。
「で、それが何」
「いえ、誰かが出てくることってあるのかなと思って」
「誰か?」
「はい、誰か、です」
誰かが、という言葉に何か含みを感じてつい鸚鵡返しになってしまったが、これまたそのまま返されてしまう。なんとなくそれが誰かを訊けずに、仮初の答えを口にする。
「……別に、ないけど」
ない。嘘では、ない。だって実際、夢の映像は全く憶えていないのだから。
「……そうですか」
「なによ」
「いえ、別に」
そんな私を映したかのように、どこか含みのある、もどかしげな声が返ってくる。
「言いなさいよ」
「夢を見るのは——」
電話越しではあまりに小さすぎる、はっきりとは聞こえないはずのそれを、私の耳はしっかりと拾ってしまう。
言葉の意味を、どこから来たのかを考える前に、それははっきりと耳に残る。不吉に響き、奇妙な響きが脳の片隅にこびりつく。
その一言がこれからの夜を予言しているなんて、知る由もなかった。
< Side 紗夜 師走某日 昼 >
「あーあ、眠いなあ」
なんの変哲もない、休日の午後。ベッドの上でごろごろしながら、SNSのタイムラインをなんとなく流し見していた。今日もまた誰かが何かして炎上しましたとか、意識高い系のアホがこれが最高ですとか、陽キャの自己満足の投稿が席巻するばかり。いつも通りの内容に、考えることすら疲れてしまったので、スマホを枕元に投げ出した。
どうしようもなく虚しくなって、うつ伏せになって枕に顔を埋める。つい口から出てしまった一言に、いつか先輩が言ってた『Lazy Afternoon』なんて言葉を思い出した。まあでも、ぐだぐだな休日の午後なんて、そんなものかもしれない。
12月は華の女子高生ならイベント目白押しで忙しいんじゃない? とよく言われるけど、私自身について言えば、決してそんなことはない。イベントって言ったってせいぜいクリスマスくらいだし、それだって別にそこまで楽しみじゃない。第一、その前には期末テストという厄介事。正直、憂鬱でしかない。
まあ、そんな期末テストはこの前無事に終わったので、今は冬休みが始まるまでのぽっかりと空いた時間だ。
家から近いから、という理由だけで受けて合格したこの高校は一応そこそこの進学校なので、自分で勉強しない人は知りません、みたいなことを前に先生が言ってた。だから今、急いでやらないといけない課題はない。後に待っているはずの冬休みのそれだって、厄介なものはなにもない。
「……んー、つまんなーい」
つまり、特にやることがない、何事もない休日。親は揃って仕事だし、お姉ちゃんが大学の休みで帰ってくるのはもっと先。つまり、今は一人だけ。
退屈のせいか、何もかもが面倒くさい。でも、寝ちゃうのもなんか勿体無い。
「うーん……あ」
ごろごろしながら唸っていたら、ふと、あのひとの顔が思い浮かんだ。枕元に放り出したスマホを手に取ると、メッセージアプリを立ち上げる。ほぼずっと上の方に居るあのひとを選んで、こんにちは、と送ろうとしたけれど、手が止まった。
「起きてる、かな」
せっかくだし、声を聴きたいな。きっと仏頂面、というほどではないかもしれないけど、渋い顔をして私からの電話を取るあのひとを想像して頬が緩んだ。
メッセージアプリではなく、電話を選択。1回、2回、3回、4回、5回。出てくれないのでここで一旦切って、もう一度。すると今度は、すぐに出てくれた。
「……もしもし」
予想したとおり、なんだか乗り気じゃない感じの、いつものあのひとの声が聞こえてきた。
「あ、やっと取ってくれた。先輩、起きてました?」
あまりに想像通りすぎて、笑い出したいのを堪えて言葉を続ける。ここで笑ってしまうと、たぶん切られちゃうから。
「電話取ってくれないんですもん。先輩のことだからきっと家で引きこもってるだろうし、だとしたら寝てるしかないかな、って」
返事がないのを良いことに、私は一方的に言葉を続けた。乗り気じゃないということは、変に間を開けるときっと切られちゃうから。
「あ、心配しなくてもカメラとか盗聴器とかは置いてないですよ。そんなのスマートじゃないですからね」
そんなことをしなくたって、ちょっとだけ想像を逞しくすれば、あのひとの様子は大体わかる。けれど、きっとそんなことを疑ってるに違いない。
「……用がないなら切るわよ」
「あー、待って! 切るのは待ってください先輩!」
ちょっと喋りすぎたかもしれない。半分冗談だろうとはわかっているけど、本当に切られたら嫌なので慌てて引き留めた。
電話越しだけど、苦笑いが漏れたのが確かに聞こえた。色々釈然としないけれども、あのひとから続きを促されて、本題に入る。
「先輩、夢って見ます?」
「夢って、寝てる時に見る夢のこと?」
「そうです、その夢です」
声を聴きたかった。でも実は、今朝見た夢のことが、ずっと頭の片隅に引っ掛かっていた。
おそらくあのひとは、夢なんてそうそう見ない、と思っている。見たとしても覚えているわけはない。あのひとにとって夢は、きっと本を読むことと同義なのだから。読んだことは覚えていても、その内容まではっきり覚えていることはないと思う。だって、夢なのだから。よほど気を惹かれるようなものでなければ、覚えているわけがない。
「ほとんど見ないかな」
「あ、やっぱり」
ほらね、予想通り。まあ、私の読み通りかはわからないけど、ほとんど、ってことはそんなに見ないか、見ても覚えてないかのどちらかなのは間違いないよね。
「先輩、一度寝たら眠り深そうですもんね」
「深い眠りの時って見ないんだっけ」
「たしかレム睡眠がどうたらこうたら、とか何かで書いてあったような」
うろ覚えなのは勘弁してもらいたい。あのひとほど本を読むわけではないし、第一難しい本は記憶に留めておくだけでも大変なんだから。
「で、それが何」
「いえ、誰かが出てくることってあるのかなと思って」
「誰か?」
「はい、誰か、です」
それよりも、本題はここから。
昨日、わたしが見た夢。そこには、あのひとがいた。でも。
「……別に、ないけど」
そう、私はいなかった。どこか遠い空の上からあのひとが歩いていく姿をただ見ているだけだった。
「……そうですか」
「なによ」
「いえ、別に」
予想通りの回答だった。わかっていたこととはいえ、やっぱり落胆を隠すことはできない。
だって。
「夢を見るのは——相手があなたのことを想ってるから」
伝えるつもりのなかった言葉が、思わず溢れ出る。でも、電波に乗るほど大きくなかったはず。あのひとの耳には、小さすぎて届かなかったはずだ。
いいえ、なんでもないです。と慌てて誤魔化して、いつも通りの雑談に無理やり切り替える。
なんとかいつも通りに振る舞いながらも、今朝の夢のことを思い返す。不吉な予感しか感じない、あの無気味な風景。あのひとの言っていたことは嘘ではないと思う。でも、これから先のことは、わからない。
あのひととの通話を終えて、静まり返った部屋の中でふたたびごろごろと。結構長話をしていたみたいで、カーテンは茜色に染まっていた。
のろのろと立ち上がり、部屋の電気を点けようとして動きが止まる。薄暗い部屋を見ていたら、今朝の夢が再び再生される。重く沈んだ風景が、なぜか目の前に重なって現れる。一人で抱えるにはやっぱり、重い。
どうしよう。なんとかしてこれを、先輩に伝えたい……。
あ、そうだ。手紙を書こう。文章にしてしまえば、もっと素直に伝えられるはず。それに、確か誰かが言ってた。『電子メールは確かに速いけれど全てが伝わらない。一通の手紙なら、想いは確実に伝わる』って。
そうと決まれば、と部屋の電気を点けて机に向い、抽斗からレターセットを取り出した。頬杖をつきつつ、ところどころ考えながら書き進めていく。
これは私の、大切な内心の告白なのだ——