【夢と現の狭間に】 「もういない誰かを待つ。」
何かが、近づいてくる。大きな地鳴り低く鈍い音が響き渡る。世界が、揺れる。静かなここを、まるで目覚めさせるかのように。
事実、わたしは目を覚ました。そして目を開けた……否、開けようとした。
眩しい。目の前が真っ白だ。明るすぎて、目を開けているのかもわからない。
いったい何があったのだろう。ここはいつも薄暗くて、どんなにしっかり目をしっかり開けていても、まわりはうすぼんやりとしか見えないのに。
今はむしろ、目を開けることがつらいほどに眩しい。起きようと思っても、目が開けられない。
もしかして、誰か来たのかしら。ここに? ずっと、誰もいなかったのに? わたしのことなんて、もうずっと誰も知らないはずなのに? まさか、帰ってきてくれたの? あの人が? それなら。それなら……
なんとか頑張って目を開けてみる。しばらく何も見えなかったけれど、徐々に光に慣れてきて、真っ白だった視界が徐々に形を取り戻してきた。足りないのではなく、多すぎる光と埃でぼんやりとする周囲をゆっくりと見回してみる。
いつも薄暗く、ほとんど何も見えないはずのこの部屋に、溢れんばかりの光が差し込んでいた。
おかしいな。やっぱり誰かがここを訪れて、扉を開けたのかしら。それにしてはあまりにも光の量が多すぎる気がする。それに、扉は向こうでちゃんと閉まっている。
はて、と何の気なしに上を見上げてみると、そこに答えがあった。
なんとまあ、天井に大きな穴……否、これは穴じゃない。ここまで大きいと、穴とは呼べない。この部屋の天井の、ほとんどが無くなっている。遮るもののないその先には、空が広がっていた。
空……そうか。これが、空なのか。
あの人がいた頃に、時折開けていた窓から少し見えるくらいだったそれが、今目の前にあった。崩れ落ち跡形もなくなった天井越しに広がっている。
ところどころに、ふわふわのかたまりが流れている。たしか、雲と呼んでいた。ゆっくりと、形を変えながら、流れていく。
ここから見上げるものだけでも、こんなに。ああ、こんなにも大きな、遠いものだったなんて。手をのばしても、届きそうにない。
わたしは、あの人の目と手と言葉を通して、色々なものを教わった。けれど、私が自らの目で見ることができたものは、とても少なかった。
実際に見ることができるのが、こんなにも素敵なことだったなんて。
ああ、私が自由に動ければ、もっとよかったのに。
ないものを望んでも仕方ない。それよりも、さっきから何か空の様子が変わってきていた。
ふわふわと浮いていた雲の塊がいくつもできていて、次々と空を埋め尽くしている。さっきまで眩しいくらいだった太陽の光は、雲の塊に遮られ、細い梯子のように差し込んでいた。きらきらと、なにかを光らせながら。
その輝きが、少しずつこちらに近づいてきている。どうしたんだろう。そう思った矢先、私の表面に、ぽつり、と何かが当たった。
ぽつり、ぽつりと。一つが当たるごとに、じわり、と視界が滲んでいく。世界が、滲んでいく。
これは、なに。
「——、これが、雨だよ」
……あめ?
「そらが気まぐれに流す涙、さ」
……なみだ? ないてるの?
「空が代わりに泣いてくれてる。だから私は、平気だよ」
不意に、あの人の言葉を思い出した。ああ、そうか。これが、雨。代わりに泣いてくれる、と言っていた雨。
……これが、あの人の涙なんだ。
ぽつり、ぽつり。私の表面に、天からの気まぐれな涙が降りはじめた。
涙は私に触れ、その視界をじわりと滲ませていく。
ぽつり。じわり。
ぽつり。じわり。
気がつくと、音の感覚は短くなり、わたしを濡らす。そういえば最後まで、私に涙を見せなかったあの人が、今まで我慢していた分まで、泣いているのか。
これは、私を濡らすあの人の涙。それはとても心地よい。今までの分まで、私がすべて受け止めてあげる。もっとも、避ける手段などないのだけれど。
世界が滲む。何かが、流れていく。少しずつ、でも確実に、私の輪郭が消えていく。
ああ、これでいい。いつ戻るかもわからない、あのひとをずっと待っているよりは。あの人の涙が、私自身を、世界の一部に溶かしてくれるのなら。
音の間隔がついになくなり、絶え間なく降り注いで全てを流していく。私の輪郭が消えていく。全てが洗い流されるまで、もう、幾許も無い。それなのに。どうしてこんなにも、綺麗な光が見えるのだろう。
残されたわずかな色が、雲間から差し込む光に淡く照らし出される。
『……ああ、世界はこんなにも綺麗だったのね』
最後の一言は、誰にも聞き取られることなく雨の音に紛れ、ぽつり、と地面に消えた。
雨があがり、雲の切れ間からさらなる光が差し込んでくる。
もう誰もいない古い館にも入り込み、用を為さなくなった天井から、部屋の中を照らし出した。
薄暗かった部屋の中、まるでスポットライトに当てられたように浮かび上がるものがある。
それは真っ白な、一枚のキャンバスだった。