【ひとりしずかに】 8月。精神修養という意味での断食の話。
今月は、私が毎年夏に決めて行なっている儀礼の話をしよう。
儀礼といっても、宗教絡みであったり特別な事項があるわけではない。ただ単に、とある願掛けが切っ掛けで始まった『断食』である。
『断食』といえば、誰もが最初に思い浮かべるのはイスラム教のラマダンであろう。しかしながら、私のこれは決して宗教的なものではない。
以前にどこかで書いたような気もするが、私自身は特に決まったところの信者や教会員、また信徒だったりするわけではない。信心深いという言葉などとは、全くもって縁遠い身である。
私の散歩出歩き記録であるTwitter(現X)に残っている諸々の場所は、小説作品の舞台や背景など何らかの理由がある、若しくはその縁でお世話になったことへの御礼というものが殆どだ。例外があるとすれば、私の旧里である静岡の有名な神社だが、ここでそれに踏み込むと話が逸れるので、これについてはまたの機会に書くとしよう。
さておき、今回は毎年8月中旬から9月中旬にかけて行う断食の話である。改めてきちんと振り返ってみれば今年は11回目。現在の形に落ち着いてからは7回目。今では願掛けと併せて、自分の精神修養の期間ともなっている。
これを始めた最初のきっかけについてだが、完全に自己満足のものであることを先に断っておく。
我が友人の安産祈願だった。
彼女は私にとっては、刎頸の友と呼べる存在である。全てではないが背景の事情を知る者として、少しでも何かをしたいと思ったのが最初だった。
事を成し遂げるのは彼女自身のことであるため、部外者である私は何もすることが出来ない。その苦しみを理解することなど当然出来るはずもないから、頑張れ、という無責任な声援を掛けるわけにもいかない。自分に出来ることは金銭的な支援と本気の祈りだけである。
『百度参り』という手も考えたが、先述の通りもともと信仰心の薄い私が今更のように願掛けをするというのも気が引ける。自分のことならいざ知らず、どうしても無事であってほしい友人のことだから尚更だ。
ではどうするか、というところで不意に思い浮かんだのが、この『断食』であった。何かで読んだことが頭の片隅に残っていたというのもあるが、何より最適だと思ったのは『飲食物の摂取量を減らすことや、苦痛を得ること自体が目的ではない、あくまで宗教的な試練』ということだ。私自身はムスリムではないが、その儀式の目的を鑑みれば、自分の祈りの先にあるものに通じるのではないか、と結論づけて、これを採用したのである。
採用した以上は、たとえムスリムでないとしても本家の規律を少しでも守ろうと決めた。ゆえに基本的なルールは、ムスリムがラマダンに行うそれに則っている。
イスラム教においてのラマダンは新月から次の新月までの約1ヶ月であるが、今現在は8月15日の日の出から9月14日の日の入りまでの30日間、それと9月14日の日の出から翌15日の日の出までのほぼ24時間である。これは毎年行なっていく中で、この形に落ち着いたものだ。
ただし、最初に始めようと決めた時はその時から始めたので、最初の1回目だけは3ヶ月ほどとなっている。とはいえ、その間ずっと厳格な生活をしていたわけではない。
なにせ初めての経験だったので、まずは体を慣らすところから始めた。
基本のルールである『日の出から日の入りまでは一切の飲食をしないこと』という部分について、まずは単純にものを食べないことと決めた。日の出から日の入りまでの間、食事はしない。ただし水分は適宜摂るようにした。
これを大体二週間くらい。それを越えたら、次は水分の摂取量自体を減らした。それまで無制限だったのが、日の出から日の入りの間は500mlの水分のみ。これで体を慣らしてまた一ヶ月ほど。ただし、後半はできるだけ飲まないようにして、本来のやり方に備えた。
それを過ぎたらいよいよ、本来のルールに則って、昼間の飲食をしない期間へ。徐々に慣らしていたこともあり、これはすんなりと入ることができた。
この年は友人の安産祈願であったので、『出産予定日』つまり終わりの日が決まっている。その一週間前からは、通常夜間は普通に飲食をするところを水分の摂取だけ(制限なし)とし、さらに3日前からは1日500mlの水分のみ、あとは一切食事をしない。そして予定日の前日からは、無事に生まれるまで終日一切の飲食をしないことを課した。
斯くして友人は無事出産を終え、その年はそれで終えたわけだが、ここで私は妙な考えに至る。
子どもは生まれて終わりではない。この時代で、これから育っていかねばならないのだ。無事な成長を祈るのも、自分が見たいものの為の一つの祈りではないか。
さて、そんなところに至ってしまった私は翌年、本来のルールを見直した上で、9月1日から生まれた子の誕生日となる9月15日までの二週間、自分の祈りの続きとして断食期間と決めた。1日から13日は日の出から日の入りまで、14日については日の出から翌15日の日の出までのほぼ1日、という形になったのがこの年からである。
それを3年続け、その間に何がどう転がったのか、本家ラマダンの期間の通りほぼ1ヶ月まで広げようなどと思い至り。とすると9月の1ヶ月かとも考えたが、友人の子の誕生日だけは祝いたいと考え、終わりではなく始まりを早めることで調整した。そうして5回目の断食から、8月15日から9月15日という31日間の期間を決め、今に至るというわけだ。
その他のルールなどについてはここでは説明は省く。本来のラマダンについて興味がある人はぜひ調べてみてほしい。
さて、そんなこんなで続けている断食であるが、自分の祈願とは別に精神修養としての意味も見出すこととなる。
始めてから気がついたことだが、単純に断食を続けるだけならさほど難しくない。本家では禁止されているが、24時間連続は難しくとも日の出から日の入りまでの断食なら年間通してでも可能だろう。私の身体がもともと、そういったことに向いているのかもしれない。
しかし、ただ惰性で続けているのでは意味がない。せっかく斯様な形をとっているのだから、何事か試してみるのもひとつの形である。
精神修養という考えに至ったのは、私自身の思考パターンに依ることが大きい。普段から余計な事を考えてしまうことが多く、それゆえに感情や思考の浮き沈みが激しくなって、その時々の行動に支障を来すことがある。
本家の意義にある『欲も断って自身を清める』という事に依り、その問題に目を向け自分の思考を整理して落ち着かせ、あわよくば小説などの種が拾えたら、といったところに行き着いた。
完全ではないが、これについては割とうまく進んでいると思う。色々と考えることは多いけれども、それでも冷静に処理が進むようになった。
年々夏の暑さが厳しくなってきて、水分を摂らないという部分において厳しいと感じることもある。しかし、体が保つ限りは今後も続けていく。自分が進みたいという道には辿り着けないのだから、せめてそこに少しでも近づけるように、修養も続けていこうと決めているのだ。
《 8月の終わりに 》
今後の予定を少しだけ。
いまのところ、あの二人の話が滞っておりますが、追々出していきます。
私の身辺が少し落ち着かないので、片付けつつ進めていくつもりです。
それではまた、別の物語で。