喋るカニとコオロギ、頭に花が咲いたおじさん。
ぼくは小学校で教諭として働くことで、おまんまを食っている。だから、
「読書感想文を書きましょう。」
という宿題をもちろん出したことがあるし、国語の授業では、新たな文章に出会わせるたびに
「感想を書きましょう。」
という学習をしている。
2つのうち、後者には色々な意図や目的があるため行なっているのだが、前者の読書感想文といった代物に関しては、なぜ宿題として出しているのか未だによくわかっていない。
というか、今年度の夏休みは初めて出さなかった。
「書きたい人は、書いておいで。」
とだけ述べてレギュレーションを記載した用紙と共に原稿用紙を渡した。2学期の初日に原稿用紙の束を持参した児童の内、何人が書きたかった子で、何人が親に書きなさいと言われた子だったのかは、不思議とすぐにわかった。
本なんて、読むだけで良いことしかないのに。書くという苦行をセット売りで押し付けられることで、読むことすら嫌いになってしまう。
その昔、超人気ゲームと抱き合わせでクソゲーを売りつける悪徳ゲームショップが蔓延っていたらしいが、それより遥かにたちが悪い。失うのは現金ではなく、一生の財産となる知識を得る、かけがえのない機会だからだ。
ぼくは、幸運にも小学生1年生の担任の先生のおかげで、25年以上経った今でも
「趣味は読書と酒です。」
と言えるくらいには酒が好きだ。間違えた。本が好きだ。
高校の時には、書きたくない友達から注文を受けて、1000円で売りつけていた。いや、酒ではない。読書感想文を打ったデータを短い冬休みに6人分、それも、全部違う本でだ。これはなかなか凄いことだと自分で思う。
善良な商売人だった18歳のぼくではなく、今の飲兵衛なぼくが読書感想文を書いたら。どんな文章になるのだろう。
「『翻訳できない 世界のことば』を読んで」
言葉の遣い方をとにかく気にする性格である。TPOに応じてかなり細部まで気を遣っている。言葉も気も、使う物でなく遣うものなんだなあ、とたった1行書いただけで内省と自己対話を始めてしまう程度には、気にしている。
SCENE1.友人との会話
・ネットスラングやミームを多用する傾向にある
・仲間内で確実に共通理解できている話題のみ略語を用いることができる
・しかし、稀に相手の知らなそうな言葉をわざと出して知識マウントを取ることを忘れない
・地元、高校、大学それぞれの友人に対してでも少しずつ異なる
・センシティブな話題の場合、その場にいる人の考えが一通りわかったところで、それらを継ぎ接ぎしながら話題に参加する
・完全に考えが相反する場合は、少々極端な例を出して反論し、反応を楽しむ
列挙すると、その場の空気を楽しむだけの会話に終始しようとしていることが窺える。当たり障りのないコミュニケーションを心がけつつも、たまに我を出すことでアイデンティティを確立しようとしているようだ。それでいて無理はしていない。
SCENE2.職員室での会話
・ネットスラングやミームは絶対に使わない
・絶対に誤解が生まれないような言葉選びを徹底する
・予め会談の予定がある場合には、テーマに沿って自分の考えを表すのに最も適切な言葉をいくつかストックしておく
・何気ない会話の中でも、間違った言葉は遣わない
・しかし、相手が間違っている場合は絶対に指摘しない
・正しい表現に迷った場合は、会話の流れを少し止めようとも検索する
・但し、上司とのマンツーマンの場合はその限りではない
・その場合は、「○○と思っているんですが、どんな言葉が適切でしょう?」と聞いちゃう
・センシティブな話題の場合、まずは自分の考えを必ず先に述べて出方を見る
・完全に考えが相反する場合は、相手の考えに共感できるところを探して話しながら、徐々に反論していく
・方言敬語など以ての外である
ここから見えてくるのは、例えその場の空気が悪くなろうと芯を曲げないという少々厄介な意志である。職場の人間と仲良しこよしをしたいのではなく、どれだけ険悪になろうとも成果を出したいと考えている。しばしばマイノリティ扱いされるが、あまり納得はしていない。
加えて、会話のイニシアティブを握っていないようで握っていること。バラエティ番組で言う「裏回し」のポジションを意識している。
SCENE3.教室での会話、SCENE4.家族との会話……と続いていってもいいが、飽きこのままでは全く本題に入れないので割愛したい。
要するに、極端に神経質であり、常にセルフプロデュースを怠らない典型的なナルシストであることだけ、お分かり頂きたい。
そんなぼくが書店で出会い、ふと気になったのが「翻訳できない 世界のことば」という本だった。
まず、装丁が可愛い。ポップでキュートなのにどこか哀愁がある。ディズニーならセバスチャンやジミニー、ワンピースならクロッカスさん、ファンタ〜ネ!ならやころが好きなぼくにとってドストライクすぎるビジュアルだった。
元々小説ばかり読んでいたのに、ここ数年ビジネス書ばかり。教育書は死んでも読まないという謎のこだわりもあった(今は読んでいる)。要するに、ずーっと本と共に生きてきた自分を、過剰にブランディングしていた時期だった。今思うと、そんな僕の硬さを一瞬で氷解したのが、このアートワークだったのだと思う。
ほぼ同時に、「翻訳できないのに、日本語訳されている?」という一見矛盾した情報が飛び込んでくる。ビニールに阻まれ、開くことはできない。ほとんど一目ぼれの女性の衣服を今にも剥ぎ取りたくなるような、そんな感覚で書棚から取り、レジに持って行くことにしたのだった。
マジ? と声が出たとか出てないとか。1つ目から期待のハードルを悠々と超えてきた。すんごい着痩せするやん。こういう、力を入れなくて良いものを読みたかったのだと改めて感じる。金メッキのブランド名が、こびりついた自意識からゆっくりと剥がれ落ちていく。あれ、脱がされてるの、ぼくやん。
かと思えば、この振れ幅である。ハムやチーズやレタスの話をしていたと思いきや、海底でバギーが大破した瞬間のしずかちゃんの感情を急に思い出させられる。振れ幅で鞭打ちになる。
物語にふれる、感動する、胸が熱くなる、涙ぐむという、抗いようなく落涙するまでの感情の動きをたった一言で表している感性。
へえ、そういう意味やったんだ、と。こっぽりした茶室の雰囲気とか、織田信長が集めてそうな茶器とか、茶を点てるお姉さんの所作とか。貧困なイメージしかなかった。茶のイメージしかない。わりとよく聞く言葉なのに、きちんと意味をわかっていなかったどころか、生と死なんて人類不変の哲学が内包されているとは……。知らないことは山ほどある。
星野源が、この曲の間奏で「wabi sabi」と唱えている意味。「めちゃくちゃにしよう」と呼びかけている意図。何となく好きだった曲に、根拠を生んでくれた気がする。
ページをめくればめくるほど、何故それを一言で表したかったのか、或いは何故一言で表すに至ったのかが知りたくてたまらない。国民性? それを育んだ歴史? その流れを決定づけた土地や気候? 掘れば掘るほど、意外な事実が見つかりそうだ。
でも、掘らない。
わかってしまうと、この上質な先人史詩集を純粋に楽しめない気がするのだ。ささやかな疑問が頭にうかんだまま、
「ま、いっか。」
と放り出して良い安心感が、近所を散歩するような親近感を生んでくれる。どこか遠い国で、或いは自分の住む土地で育まれた営みが、翻訳できない言葉に凝縮されているのだとしたら。そんなに面白いことはないし、こんなにどうでもいいことはない。仄かな矛盾が心地良い。
僕が普段から、とにかく言葉の意味と遣い方に神経質になっていることに、許しをもらったような気がする。連綿と受け継がれてきた言葉たちを正しく紡ぐことに身命を賭している、それ自体に許されたのだ。
誰に疎まれようと、怪訝な顔のまま会話が終わろうと、目の前の人間に無責任であることに罪悪感を持つ暇は消え失せた。
僕はこれからも、言葉に対して自分勝手な責任を持ち、一つひとつの言葉が根を張る営みに、たまに思いを馳せたい。ごく、たまに。